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【読書記録】大山巌1 戊辰戦争

2010年6月22日 コメントは受け付けていません

(この読書記録は本が好き! 大山巌1 戊辰戦争に寄せたものです。少し手直ししてあります。)

西郷隆盛と共に育った大山巌を、幼年時代から戊辰戦争を通して見ていくもの。

薩英戦争の詳細、それによる大山巌の砲術への意識、戊辰戦争、

朝鮮の修好拒否、外交官交換拒否、日本人入国制限、

日本人漂流者の救助拒否、使節用宿舎の破壊から来る、

征韓論による明治政府の動揺と西郷の下野までが描かれている。

冷静な書き方であり、無駄な感情の抑揚は見られず、史実に沿って書く姿勢が伝わってくる。

資料の一つとして読んでいたので、

特に気になったところは学生時代に身につかなかった点である。

まず、薩摩藩が極端な軍事優先地域であったこと。

(明治6年全国士族調査によると、”『士族が住民の60%を占めたことが、記録されている。

全国平均では士族は10%以下であるから、その高率が理解できる。』”とある)

その貧苦を支え、明治維新の軍資金を支えたものが、

奄美諸島の黒砂糖を格安で買い上げ、大阪で売ることで大きな利益をあげたことにあるようだ。

『明治維新は奄美諸島の黒砂糖、いいかえれば薩摩藩の暴利政策に対する島民の忍耐で成就された、といえるかもしれない。(p12)』

また、幕臣の勘定奉行小栗上野介忠順の言葉は、現在にも通用する。

『一言ヲ以テ国を亡ボス可キモノアリヤ。ドウカナラウト云フ一言、之レナリ。幕府ガ滅亡シタルハ此の一言ナリ』(p18)

どうにかなるだろう、なんとかなるだろう、といった根拠のない希望的観測が幕府の滅亡を導いたと指摘するこの言葉は、

現代において重要な教訓を持っているのではないだろうか。

薩英戦争は、英国と薩摩藩の武器能力と技術力の差を露呈したものとは学んでいたが、

現在では

『海軍兵力の不足と劣質』(p114)

に敗北の要因があったのだとよくわかる。

海洋国家としての日本が戦略を考える上で当然、必要なものであり、これがあって海上輸送や交易ができる。

交易の基礎は安全にあり、安全は自国で保障できなければならないことを痛感させられる。

そして戊辰戦争に対するフランスとイギリスの干渉の多用さは目を引く。

特に官軍の江戸攻撃計画の際に、英国公使が、

『もし江戸攻撃を断行するなら『居留民保護の目的』で出兵せざるを得なくなる』(p221)

、とし、

フランス公使も勝海舟に対し、

徳川慶喜をフランスに亡命させるために江戸攻撃があるならフランス兵を出兵させるとしていたのだから、
江戸攻防戦が行われれば、江戸が英仏紛争の場となったかもしれない(p222)

というところは驚きである。

さらに、大山が述べる『おいが普仏戦争で痛感したのは、兵器の独立ちゅうこつ。』というのは確かにその通りだと感じる。

これは、ひいては技術の独立である。

今さらではあるが、この必要性、重要性が、自分には曖昧な認識しかなかったのだ。

出版社: 文藝春秋

ISBN-10: 4167141191

ISBN-13: 978-4167141196

発売日: 1985/06

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ヨーロッパ国際関係史―繁栄と凋落、そして再生

2010年4月21日 コメントは受け付けていません

#引き続きEUの成立過程を。

#フランスとイギリスの距離感を中心に。

#200810#

書名:ヨーロッパ国際関係史―繁栄と凋落、そして再生

著者:渡辺 啓貴

出版社: 有斐閣

ISBN-10: 4641121478

ISBN-13: 978-4641121478

発売日: 2002/05

(敬称は省略させていただいています。)

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「チャーチルには世界平和への夢があった。

それは、ヨーロッパ統合によって大陸の平和を確立することであった。

チャーチルは、戦前にブリアン仏外相の「ヨーロッパ連邦」構想に賛意を示した、数少ないイギリス人の1人であった。」

…p84

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「1942年にチャーチルは、「ロシアの野蛮主義」から「ヨーロッパ文明」を守り、

「ヨーロッパの栄光と再生」を実現するためにも、

「ヨーロッパ審議会」としてヨーロッパ統合を進める必要を力説していた。」

「戦時中に抱いていたチャーチルの夢と悪夢は、戦後間もない彼の2つの演説に帰結している。

1つは、1946年3月のアメリカ・ミズーリ州フルトンでの演説であり、

そこでチャーチルは「鉄のカーテンがおり」てヨーロッパ大陸が東西に分断されている現状を警告した。

もう1つは、同年9月のスイス・チューリヒ大学での演説であり、

そこではフランスとドイツの和解に基づく「ヨーロッパ合衆国」の形成を提唱した。

この2つの演説はそれぞれ、「冷戦」と「ヨーロッパ統合」という、戦後のヨーロッパ大陸を規定する2つの原理を指し示していた。

冷戦とヨーロッパ統合という新しい原理によって、戦後ヨーロッパの運命は翻弄されるのであった。」

…p85

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「戦後処理の最も中学的な争点の1つは、

イギリスとソ連間での東地中海における勢力圏画定の問題であった。

イギリスは、地中海における自らのシーレーンを防衛する必要を認識していた。

イタリアからバルカン半島を経てギリシャ及び中東にいたる海洋部分については、

イギリスは自らの影響力を保持したかった。

これはイギリス帝国の結束を維持するためにも不可欠であった。」

…p85

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「ベヴィン英外相は、占領下のドイツを『単一の経済単位』として扱う必要が生じていると論じた。

イギリス政府にとっては、ドイツ占領政策でさらに財政支出を続けることは困難であり、

一刻も早く占領終結に向けての動きを進めたかったのである。」

…p100

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「マーシャルプランによってヨーロッパの分断は決定的になりつつあった。」

p102

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「決して侵略者の威嚇に屈してはいけない。

これが西側諸国が戦前のナチス・ドイツとの交渉から学んだ教訓であった。」

p104

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「イギリス政府は戦後一貫して、西欧諸国が結集して1つの勢力を形成することを求めてきた。

平時における軍事同盟への関与を嫌う孤立主義的なアメリカと、

強硬姿勢を崩さずイデオロギー色を強めるソ連を前にして、

イギリス政府は「西欧ブロック」を形成し西欧諸国の結束を固めることを求めた。

1947年のダンケルク条約における英仏協調、

そして1948年のブリュッセル条約締結による西欧5ヶ国の結集を成功させ、

「西欧同盟(Western Union)」構想は実現に向かいつつあった。

イギリスのベヴィン外相は、英仏を軸に西欧諸国が植民地を結集させ、

米ソと対等な地位に立つ世界『第三勢力』を構築することを夢見ていた。

それはまた、アメリカの資本主義とも、ソ連の共産主義とも異なる、

ヨーロッパの社会民主主義という理念を実現させることも意味していた。」

p105

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「しかしながら、冷戦状況が進展する中では、このベヴィンの見解は外務省内で必ずしも多数派とはならなかった。

当時のイギリスの経済状況が、そのような理念を否定したのである。

そして1948年2月のチェコスロバキア危機や、ノルウェーやフィンランドに対するソ連の圧力を見て、

イギリスはアメリカとの協調関係強化を最優先させるようになる。」

p105

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「ポツダム協定に従い、西ドイツでは依然として非武装化が守られていた。

したがって、そこは東西対立の中での力の真空であった。

(中略)

何らかの方法で、西ドイツの安全保障を確保せねばならなかった。

(中略)

米軍を送るわけには行かなかった。論理的に、それには2つの回答方法があった。

第1は、英仏を中心とした北大西洋条約諸国がさらなる兵力をそこに拠出することであり、

第2はドイツ人がドイツの領土を守ることであった。」

p107

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「前者の選択肢は、英仏両国の経済苦境や海外領土での軍事的負担を考慮する限り困難であった。

とすれば、後者のドイツ再軍備と言う道を歩まざるを得ない。

英仏両国は苦悩の中にあった。

イギリス政府が次第に西ドイツの再軍備を了承する一方で、

フランスの場合はあまりにも鮮明なる過去の記憶から、ドイツ再軍備を受け入れることはできなかった。

しかしながら、脆弱な西欧防衛を強化するためにも、

米軍のヨーロッパへの関与の増大が不可欠であることは、フランス人も十分に理解していた。」

p107

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「フランス政府学問の中から出した結論は、

超国家的な「欧州軍」の枠組みの中で、ドイツ再軍備を実行することであった。

フランスが主導する超国家的な「欧州軍」にドイツ兵力を参加させると言うことならば、

「ドイツ国軍」が復活し、ドイツのナショナリズムが再び惨禍をもたらすことはないだろう。

このような構想が、フランスのジャン・モネによって見出された。

これが、1950年10月にフランスのプレヴァン首相によって発表されたプレヴァン・プランの骨子である。

この構想は、「ヨーロッパ防衛共同体(EDC)」条約として1952年5月に西欧6カ国により調印され、

超国家的な軍事統合が目指された。

イギリスは、帝国防衛のための海外での軍事負担や、EDCの超国家的性質を敬遠したため、

自らはこの条約に加わることはしなかった。」

p108

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「1945年9月にイーデンは、ロンドンで9カ国外相会談を開催し、この問題を討議した。

その結論は、1948年のブリュッセル条約を、新たにWEU(西欧同盟)として改組し、そこに西ドイツを加えることであった。

重要なことは、それは政府間協力の枠組みであって、しかもイギリスが加わっていることであった。」

「イギリスとフランスは、1958年のスエズ危機における屈辱的な挫折ののち、

国際政治における発言力を著しく縮小させていたのである。

他方、1955年にヨーロッパ統合をめぐる新しいイニシアティブが発揮され、

それは1958年の欧州経済共同体(EEC)設立へと向かう。」

p121

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「イギリス政府は、マラヤやシンガポールで植民地支配への復帰を達成する一方で、インドの独立問題に直面した。

インドはイギリス帝国の中で、最大規模かつ最も重要な歴史をになっていた。

ところが、1947年8月にアトリー労働党政権は、インドとパキスタンの独立を容認した。

イギリス政府の思惑は、敵対的なインドと独立戦争を戦うよりも、

インド独立へとイギリス自らがイニシアティブを発揮し、

コモンウェルス(英連邦)の中に友好的に位置づけたほうが自らの利益になる、ということであった。

事実、ブルマを除いて、独立後のインド、パキスタン、セイロンはコモンウェルスの一員となった。

イギリスは部分的に脱植民地化を容認しながら、依然として自らの世界的な影響力と責任を確信していた。

戦後すぐにイギリス政府が、世界帝国の解体を望んでいたわけでも、受け入れたわけでもなかった。

コモンウェルスとしての結束を図りながら、イギリスの世界大国としての地位を維持することが重要だったのである。」

p127

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「戦後ヨーロッパにおける西欧協調は、世界政治における冷戦対立の構図と平行して進められたのであった。」

p129

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「西欧諸国、なかでもイギリスは、

アメリカと対等の地位を手に入れるためにも植民地政策の協調によって巨大な世界勢力を形成することを望んでいたのであった。
ところが次第にそのような西欧植民地協力としての「第三勢力」構想が、幻想にすぎないことが明らかとなる。

西欧諸国政府は、アジアやアフリカにおけるナショナリズムの強さを、あまりにも小さく見積もっていたのであった。」

p129

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「1952年にエジプトで革命が起こり、それまで親英的であった君主制が転覆して、

反英的姿勢を持つナセル率いるアラブ・ナショナリストが政権を荷う事になった。」

「ダレス国務長官の目には、スエズでの英仏の帝国主義的な武力行使は、

ハンガリーでのソ連の帝国主義とほとんど同じような野蛮な行動であった。

アイゼンハワー大統領は、厳しくこの英仏の行動を非難した。

また、同時にソ連政府は、軍事行動も辞さぬ姿勢で英仏合同軍のスエズからの撤退を要求した。

イギリスは屈辱的な撤退を決意し、それにともなってフランスも作戦を中止した。

もはやイギリスも、世界戦略上で最も重要な位置を占めている中東問題においてさえも、独力で解決することができなかったのである。

イギリスは、あらためて英米関係の重要性を認識した。

アメリカとの協調を無視しては、重要な外交問題を解決することはできない。

したがって、イーデンを継いだマクラミン首相は、外交政策の基軸に英米協調を掲げたのである。

他方、フランスは、アメリカの非難を浴びてすぐさま撤退したイギリスに対し強い不信感を抱いた。

重要な局面でイギリスは、フランスではなくアメリカを選ぶのである。

フランスはこののち、欧州経済共同体(EEC)設立に積極的な姿勢を見せ、

さらには仏独協調の枠組みを強化する方向へと進むことになる。」

p134

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「1946年9月の「ヨーロッパ合衆国」を求めるチャーチルに導かれたヨーロッパ運動の圧力運動は、

1948年のハーグでの「ヨーロッパ会議」へと帰結した。

この会議は、西欧諸国政府に統合の進展を強く要求した。

他方、1947年末のロンドン外相理事会の決裂により、

西欧諸国政府もその結集によって西欧の安全保障と復興を目指すようになった。

1948年3月のブリュッセル条約は、ヨーロッパ統合の起源をめぐっても、重要な意味を持っていたのである。

そのイニシアティブを発揮したのが、イギリス政府のベヴィン外相であった。」

p135

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「ところが西欧同盟内では、政府間協力としての統合を望むイギリス政府と、

より連邦主義的な統合を求める大陸西欧諸国政府との間で厳しい対立が続いていた。」

p138

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「スエズ危機での英米両国への不信感が、フランスを『ヨーロッパ』へと向かわせる大きな動機となった。」

p146

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「同時に、このころフランス政府は泥沼化するアルジェリア戦争に疲弊しており、

その意味でも植民地主義に代わる『ヨーロッパ』の枠組みの意義を、十分に意識していたのである。」

p146

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「フランスがヨーロッパ共同体へ向かう一方で、

イギリスはそれとは一線を画して、英米『特別の関係』の強化へと向かっていた。

ここでイギリスとフランスは、再び異なる方向へと向かっていたのである。

スエズ危機はその意味でも、英仏が異なる教訓を得て、異なる道を歩むことの転機となった。」

p147

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「54年のEDCの挫折は、イギリスに改めて超国家統合の限界を知らしめた。

また、イギリス抜きでのヨーロッパ統合が実にもろいものであると考え、その新しいイニシアティブを真剣に考慮しようとしなかった。

『ヨーロッパ再出発』のこの重要な時期にイギリス首相としてヨーロッパ政策を指揮したのは、イーデンを継いだマクミランであった。

また、55年のメッシーナ会議からイギリス代表を離脱させる決定を行ったのは、当時の外相マクミランであった。」

p147

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「マクミランは、自らが長年抱いていた政府間協力としての、

イギリスをリーダーとする新しいヨーロッパ統合構想を推し進めるようになる。

これはコモンウェルスに似た形での緩やかな自由貿易圏(FTA)を意味し、当時、政府内では「G計画」と呼ばれていた。

マクミランは、スパーク報告を土台としたEEC設立への動きが失敗し、西欧諸国がこの「G計画」を受け入れて、

イギリスをリーダーとする新しいヨーロッパ統合が始まると期待していた。

しかしながら、スパーク報告を検討していた「6カ国」はこのマクミランの構想にあまり魅力を感じず、それを拒否することになる。

マクミランの非現実的な野望はくじかれ、

西欧はEECに参加する「6カ国」と、マクミラン構想に参加する「7カ国」に分裂した。」

p147

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「マクミランは、イギリスの国益に最適な形での、イギリスのリーダーシップによるヨーロッパ統合を望んでいた。」

p147

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「10年前のシューマンプラン発表の頃とは異なり、

イギリスにとって植民地やコモンウェルスの経済価値ははるかに縮小し、

それに代わってヨーロッパ大陸の経済規模は想像以上の速度で拡大していたのである。

その中核であるEECを無視して、イギリス経済の将来を考えることは困難であった。」

「イギリスはアメリカの「トロイの木馬」であり、

それは自立した「ヨーロッパ」を模索するドゴールにとって致命傷となる。

ドゴールはイギリスの加盟を通じてアングロ・サクソンの支配下に入ることを防がねばならなかったのである。」

p148

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「そもそも大西洋同盟は、設立の敬意から英米主導で進められてきたものである。

ドゴールは大西洋同盟再編の問題を、フランスのNATO加盟において死活的な問題と考えていた。」

「英米と対等な地位を得るために、フランスは「ヨーロッパ」という枠組みを用いる必要があった。

フランスは、ヨーロッパという土台の上に立って初めて、世界政治における自らの影響力を確立することができるのである。」

p154

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「ドゴール大統領は、

ケネディ政権の「大西洋パートナーシップ構想」を、アメリカによるヨーロッパ支配の再強化であるとみなすようになる。

ケネディ政権のこの構想とMLF構想を、ドゴールは一体のものとして考えた。

それはアメリカの影響力がヨーロッパへと浸透することとみなしていた。

1962年12月のアメリカによるポラリス・ミサイルのイギリスへの売却もまた、

イギリスのアメリカへの従属としてドゴールの目には映った。

したがってドゴールは、イギリスのEEC加盟の扉を閉じ、さらには仏独枢軸の形成へと急いだ。」

「このとき、ヨーロッパの将来像をめぐって2つの選択肢があった。

ケネディ政権の考える「大西洋のヨーロッパ」と、ドゴールの考える「ヨーロッパ人のヨーロッパ」である。

ドゴールは1963年の一連の行動で、前者を否定して後者を選ぶと言う選択を行ったのである」

p154-155

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「ドゴールの退場でイギリスのEC加盟への道が切り開かれた。

世界経済が困難な時代に入った中で、自らの活路をどの方向に見出すかの選択を迫られたのがイギリスであった。

1961年のEEC加盟申請の際には、コモンウェルス(英連邦)や英米の特別な関係への配慮という点から、

イギリスにはまだまだ迷いがあった。」

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「続くウィルソン労働党政権の加盟申請(67年)当時には、

すでにイギリス経済再生のためにも、イギリスの国際的役割を取り戻すためにも、

残された道はEEC加盟しかないという意見が数多く出されていた。

しかし、ウィルソンのヨーロッパ主義にはかなり便宜的なところがあったことも事実であり、

この申請も2度目のドゴール政権の拒絶にあった。」

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「70年6月に登場したヒース英保守党政権は、それまでの英政権で最も親EC的な政権であった。

ヒースは10月には加盟への本格的交渉に入った。」

p175

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「ウィルソン政権にとって、

イギリスになるべく有利なCAPに関する決定をもたらすことが加盟申請の1つの動機であったのだが、

この願いはかなわず、ヒース政権はフランスに有利な共通農業政策を、既成事実として受け入れざるを得なかった。

これはとりもなおさず、フランスに対抗する形でのEC加盟は無理であることを、イギリスが悟ったことを示していた。」

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「結果的には貿易大国であるイギリスは、

多くの財源をECに提供する割には、フランスほどに共通農業政策から恩恵を受けなかった。

サッチャーまで引きずられる問題構造が、このときすでに存在していたわけでもあるが、

ヒース政権は、外から影響力を及ぼそうとするよりも、

中に入ってから漸次的に事態をイギリスに有利に改善していくほうに望みを託した。」

p176

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「イギリスは、EMUが進展しようとも、加盟国は国家としてのアイデンティティを喪失しないことを確認したと表明した。

EC加盟がイギリスの国家主権の侵食につながるという、英国内の根強い反論を意識してのことであった。」

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「加盟が主権喪失につながるという議論に反駁するにあたっては、66年のルクセンブルクの妥協が非常に役に立った。

ヒース政権は、共通農業政策が英国内の食料価格を押し上げ、コモンウェルス貿易を弱体化させるであろうことは認めたが、

にもかかわらず、イギリスは加盟により技術的、経済的に恩恵を受け、世界の中でのイギリスの声を強化することができると論じた。

その際には、60年代のEEC6カ国経済の急成長ぶりが傍証とされた。」

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「やっと合意に至ったイギリスのEC加盟であったが、予想にたがわず国論は二分された。

産業界は加盟に好意的であり、賛成キャンペーンを展開していた。

しかし世論は流動的であり、保守党内部からの造反も予想されていた。」

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「73年1月1日に実現したイギリスのEC加盟は、イギリスがヨーロッパのほうを向いた決定的な一歩であったことは間違いない。

これは、それ以前の「帝国」(コモンウェルス)とアメリカとの特別な関係を絶対的に優先させる立場から、

よりヨーロッパのほうにイギリス外交の重心がぐっと傾いた、歴史的な決断であった。」

p177-178

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パクス・アメリカーナへの道 胎動する戦後世界秩序

2010年4月17日 コメントは受け付けていません

#アジア各国をEUに例えるとどうなのだろう。

#日本はドイツ、中国はフランスだろうか。

#韓国はポーランドか。

#イギリスの位置にいるアジアの国はどこだろう。

#EUと距離を置いているという点で、オーストラリアになるのだろうか。

#オーストラリアはそこまで大国という感じじゃないなあ。

#アジアはアジアとして、形成できるといいのだけど。

#2008前半#

書名:パクス・アメリカーナへの道 胎動する戦後世界秩序

著者:紀平英作

出版社:山川出版社

ISBN-10:4634481103

ISBN-13:978-4634481107

発売日:1996/12

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「協定は確かに一面では、合衆国側の提案を英国が押し返した結果であった。

がしかし、合衆国にとって当面は譲歩であったとしても、その協定に至る経緯は、

1941年から43年にかけて米・英の関係が戦前とは明確に逆転したことを、両国指導者に改めて確認させる内容であった。

ケベック協定の重要な歴史的意義は、まずその点にあった。」

p25

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「英国は戦時中、合衆国から武器を中心に膨大な物資の貸与(いわゆる武器貸与法援助)を受けていた。

その総額は、41年から45年にかけて最終的に300億ドルを上回るものであった。

加えて、英国は戦後合衆国から、

ホワイト提案に盛り込まれた国際復興開発銀行融資ではなく、より有利な政府間借款の供与を期待していた。

 英連邦スターリング・ブロック体制を維持しようとする一部国内議論との、厳しい対立を覚悟しながらも、

ケインズらは、すでに43年末の時点で、戦後英国経済が合衆国の協力関係を無視しては立ち行かなくなる事実を承認し、

ホワイト案の受け入れを決断していた。」

p78

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「ハイドパーク覚書には、実は今ひとつの重要な合意事項があった。

原爆が開発された場合、それを最初に投下する対象は、日本であるという合意であった。

『最高の機密事項とされなければならない一方、実際『爆弾』が完成した際には、

熟慮をへたうえで、日本に対しておそらく用いられるであろう。

そして日本は、降伏するまで、この原爆による攻撃が繰り返されることを警告されるべきであろう』

p177

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「『長官は、会議において合意に達した結論として、日本には一切警告を与えないこと、

そして投下地点としては、ことさらに市民地区とすることはできないが、

しかし可能な限り多くの住民に対して深い心理的影響を与えうる地点を求めるべきであることを、全体の議論としてまとめた。

そのうえでコンプトンが提出した、投下のターゲットとしては、

多くの労働者が働き、かつ周辺に労働者住宅街が近接している重要軍事工場が最適であるという提案に同意した。』」

p180

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「フランスは、当然のことながらドイツの弱体化を目指していた。

ザールの併合、ラインライトの切り離し、ルールの国際管理による石炭のフランスへの供給確保、

これらは基本的にドイツの産業基盤、とくにそのエネルギー部門と重工業部門を縮小させようとする施策であった。

ドイツ経済が軽工業を中心とした分散的なものとなること、

加えて、フランスが事実上ラインライトを含めて当方に影響圏を広げることが、

フランスの軍事的・政治的安全保障であるというのが、彼らの第一認識であった。

そうしたドイツの弱体化を求めたことの間のフランスの立場は、

対ドイツ政策としてみるとき、ソ連の主張と表向き共通する点を持ったことも事実であった」

p222

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「戦後の鉄鋼生産を先ず大規模に拡大し、

さらに自動車・電機などの現代的耐久消費財産業の急速な育成を図ることで、

ドイツに代わってフランス重工業、耐久消費財産業を、ヨーロッパ経済の基幹部門にすえようとする計画であった。」

「石炭さらには石油を中心としたエネルギー源を潤沢に確保することが今ひとつ不可欠であった。

ドイツから賠償として工場施設とともに石炭を要求し、

さらに国際管理によってルール石炭の供給確保を求めた要求は、

戦後におけるフランス産業刷新計画の基礎的要求として考えられていたのであり、

それはまた、ヨーロッパの経済政治地図を戦後長期に変えることをも意図した構想であった。」

p223

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「合衆国政府が深刻視したのは、つまるところ軍政府当局が指摘した占領コストの膨大さであった。

46年、米英占領地域を合わせると6億ドルものコストが、食糧配給さらには石炭不足のために費消されたとされた。」

p227

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「米英政府による両占領地域の経済統合という合意によって一挙に変化した。
以後、米英間で両占領地域の経済統合の具体案作成が、ソ連、フランスを抜きにして進められていった。」

p221

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「英国、フランスなど西欧諸国の貿易赤字のおよそ60%が、じつに対米赤字であった。

合衆国と西欧との新しい戦後関係は、この経済関係と無縁ではありえなかった。」

「マーシャルプランはつまるところ経済的に言えば、

西欧諸国のその経済不全状況、とくにその最大の兆候であった対外貿易収支の悪化を、

合衆国自身も考慮すべき深刻な問題とみなし、

合衆国政府資金の援助をもって改善することを呼びかけたものにほかならなかった。」

p265

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「パリ会議を継続させた最終の対処策となるものが、

ほかならぬ八月後半に成立した上述の、米英仏三国間におけるルール国際管理案であった。

その合意によって、フランスはルール石炭および鉄鋼に対する発言権を将来に向けて確保した。

それはフランスがこの時点で、合衆国からひきだしうる最大の譲歩であった。

この三国合意を機に、合衆国政府が経済援助計画を介して実現を求めた西欧協調という政治的展望は、まちがいなく大きく開けた。

ほかでもない、フランスはルール国際管理案への合意をえたことの見送りとして、

七月に出された修正西ドイツ「産業水準案」を承認し、

さらにはこの年末に、フランス占領地域を米英ドイツ占領地域に統合することを約束したのである。」

p276

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ポーランドの高校歴史教科書

2010年3月30日 コメントは受け付けていません

#各国の歴史教科書の違いというものを知りたかった。

#高校教育に組み込んで差し支えないものであると考える。

#検証可能な事実によって比較できなければ自国の立ち位置が明確にならない。

#そうでなければ全く根拠のない言論攻勢とのバランスを取りながら政治を行っていかなければならなくなる。

#政治家は国民が雇った政治代理人である。

#その国民が知らなければ政治の変化を期待するのは酷だ。

#200810#

書名:ポーランドの高校歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ)

著者:アンジェイ ガルリツキ

訳者:渡辺 克義、田口 雅弘、吉岡 潤

出版社: 明石書店

ISBN-10: 4750321435

ISBN-13: 978-4750321431

発売日: 2005/7/26

「なぜ、歴史を学ぶのか。

歴史を知ったからといって日々の生活にいかほども役に立たず、

将来に向けて決断を下そうとする時にも参考にならないというのに。」

「まず、歴史を意識することが国家・民族を意識する重要な要素であるからである。

国家・民族意識を奪おうと狙った作戦が、

いつもその国家・民族の歴史を教えることを禁じることから始まっているのは偶然ではない。

まったく偽りの歴史が教えられることもあった。

歴史を奪われた国家・民族は緩い集合体となり、統治が容易となる。」

「教科書の執筆者は堂々と嘘を書き連ねているという自覚があり、

理路整然と繰り返し嘘を並べることで、

社会の歴史意識を歪められると思ったのだった。

ある程度まで、彼らの思うとおりであった。」

「すべての年号や人名を丸暗記せよというのではない。

それよりはるかに大切なのは、

歴史の流れ、つまり事件の原因と結果を理解することである。」

アンジェイ・ガルリツキ 序より

###■パール・ハーバーについての記述

「1941年12月7日、日本の航空機がハワイの米国軍港パール・ハーバーを攻撃したのである。

(中略)

ローズヴェルト大統領は日本に交戦状態に入ったことを宣言した。

3日後、第三帝国とイタリアが米国に宣戦布告した。戦争は地球規模に拡大した。

日本の攻撃はローズヴェルトの立場を非常に楽にした。

ある時から彼は、

米国が民主主義を守るために参戦しなければならないことに疑いを抱いていなかった。

しかし、このことを米国民にいかに納得させるかが問題であった。

パール・ハーバー後、この問題は無くなったのであった。」

p112

###

「パール・ハーバー攻撃は日本軍の最重要作戦ではあったが、

一回限りの作戦だったのではない。

この攻撃の目的は、一定期間米国太平洋艦隊の動きを封じることにあった。

日本にとって重要な資源供給地を確保するうえで、

日本軍には一定の時間が必要だったのだ。

従って、同時に英国領香港とグァム島、ウェーク島、フィリピンの米軍部隊も攻撃対象となり、

オランダ領東インド(インドネシア)が占領された。

マレー、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)も攻撃された。

これらの作戦の大半は地理的必然性に起因していた。

海上での覇権を掌握するには、さまざまな島嶼(とうしょ)や港湾を押さえておく必要があった。

日本にとっては、英国・オーストラリア・ニュージーランド・米国・オランダの各軍が問題だった。

しかし、その規模は大きくなく、しかも相互に協調関係もなかった。

フィリピンの米軍を指揮しているマッカーサー将軍は日本軍の攻撃にかなり効率よく抵抗したが、

封じきれる見込みはなかった。」

p143

###■日本軍についての記述

「日本軍は手強い敵であった。

尋常でないほどに自己犠牲の精神を持ち、執拗かつ狂信的であった。

冷酷非道で、かつよく教育されていた。

絶望的状況下でも最後の一人まで戦った。

天皇のために命を捧げる準備が出来ており、

そうした死は彼らにとってもっとも尊いものだったのだ。」

p145

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「戦争は戦場で展開されていたが、その勝敗に決定的な影響を及ぼしていたのは経済力であった。

連合国には枢軸国の3倍の軍事力と歳入があった。

その軍事産業が敵の脅威にさらされることはめったになかった。

加えて、原材料が無尽蔵にあった。

軍事産業においては勿論、実戦部隊への人的供給においても、

それが無限に可能であった。」

p147

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「ドイツ軍は指揮系統では勝っていた。

戦場にあってドイツ軍司令官は柔軟に決断を下しており、

彼らはポーランドで、後にフランスで軍事経験を積み、

さまざまなタイプの軍と共同歩調を取ることができた。

一方、英国軍司令官は厳格で、伝統に固執し、

ソ連軍は自軍の損失を考慮せず、

また米軍は軍事技術的に優位に立ち、すべてを踏み潰すなど、

あらゆる点でドイツ軍とは異なっていた。」

p147

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「ドイツを潰滅・解体することと、フランスから大国としての地位を奪うことは、

英国外交の基本政策—すなわちヨーロッパ大陸勢力均衡の原則—を否定するものであった。

西欧に米国が軍事的・政治的影響力を残し、ソ連の影響力と釣り合うことのみが、

英国外交の基本政策の回復を可能とできるものであった。

しかし、ローズヴェルトは戦争終結後ヨーロッパから直ちに軍を撤収させる意向であると数次にわたって公言していた。

(中略)

ローズヴェルトはフランス、イタリア、オランダから植民地を取り上げたかった。

英国に対しても同様である。チャーチルにとってこれは受け入れがたい計画であった。

この計画はすぐにスターリンの気に入るところとなった。

ソ連には植民地が皆無だったからである。」

p168

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『国防』 石破茂先生

2009年8月12日 コメントをどうぞ

#外交における発言の重みは軍事力が大きく影響する。

#国境問題や国際協力は経済力だけでは解決できない。

#日本人は内政だけしか考えていないと言われる。
#内政は外交とのバランスで成り立つと考えるので、

#必ず知る必要があると考える。

#石破先生の著作はわかりやすく、入門しやすいと感じた。

#20080613#

書名:国防

著者:石破茂

出版社: 新潮社

ISBN-10: 4104737011

ISBN-13: 978-4104737017

発売日: 2005/1/26

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「本書で述べてきたことは、あくまでも現時点(2004年末)の私の考え方です。」

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「楽観して、楽観して、楽観して、何かあったときには責任を取らない。

 そういう人もいるかと思います。

 軍事について考えることを、まるで危険思想のように言う人たちがそうです。

 しかし政治家というものは、心配に心配を重ねて、

 結果として何事もなかった、ということでいいのだと私は思っているのです。」

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「要するに私の真意は、訓練を積んで、戦って負けない精強な自衛隊を維持することが、

 結果的に抑止力として機能し、戦いを起こさないことにつながる、ということです。」

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「『この文章を読んで、誰が分かるか?

帰って、奥さんに語って聞かせろよ。

奥さんが分かるか? 奥さんに分からないものが国民に分かると思うか?

君たちは正確性といって、難しいことを書き連ねて、専門用語を駆使する。

でもそれは、国民の理解を深めることには絶対ならないだろう。』」

…書類を持ってきた官僚に対して

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「現実的な防衛を知れば知るほど、骨太な平和主義が必要になります。

知らない人は何だって言えます。

軍事を語るときには、最低でも、

その船や飛行機や戦車がどのような性能を持ったものか知っていないといけません。

知らないで議論することは凄く怖いことだと思います。

そういう知識は一朝一夕には身につきませんが、絶対に必要なものであるはずです。」

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「政治が語ることをやめたら、政治の意味はなくなります。

よく、『この程度の国民に、この程度の政治家』と言う人がいます。

これは私の最も嫌いな言葉の一つです。

『?程度』というのは、政治家の責務を放棄している言葉だと思うのです。」

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「文民統制といった言葉を聞いても、どこか抽象的で自分には関係ない。

そんな風に考えている方も多いかもしれません。

しかし、皆さんは納税者として口を出す権利があります。

国民は税金を払って政治家を雇っており、その政治家が軍を統制しています。

いわば、皆さんは『(自衛隊の)ユーザー』の立場にいるのです。」

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「何度も繰り返しますが、国連は”United Nations”です。

世界政府ではなくて、

連合国―――第二次世界大戦の戦勝国―――を核とした主権国家が集まったものです。

国連に参加したら国権の行使ではなくなる、主権と切り離せるといったことは絶対にありません。」

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民間防衛 スイス政府

2009年8月12日 コメントをどうぞ

#冷戦下の出版のためか、緊迫感がある民主主義についての文章だった。

#日本の民主主義は何を核として守っていくかを描き、教育に取り入れる必要があると感じた

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#20080613#

書名:民間防衛

著者:スイス政府

出版社:原書房

ISBN 4-562-01226-8

ISBN-13: 978-4562012664

発売日: 1970/10

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「スイスは、どの隣国の権利も尊重する。

 しかし、隣国によって踏みにじられることは断じて欲しない。」

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「スイスは、世界中で人類が行うあらゆる建設的行為には全力を尽くして協力する。

 しかし、自ら行うべきことを他人から指図されたくはない。」

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「親たちが我々のことを心配してくれたように、子供たちのことを考えよう。

 自由と独立とは、我々の財産の中で最も尊いものである。

 ――自由と独立は、断じて、与えられるものではない。

 自由と独立は、絶えず守らねばならない権利であり、

 言葉や抗議だけでは決して守り得ないものである。」

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「完全な国を作るためには、常に手を加えねばならない。」

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「我が民主主義の真価は、絶えず必要な改革を促すことである。

 どのような制度も、生き物とおなじように、

 それ自体の生命力によって変化することから逃れるわけにはいかない。」

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「民主主義は、何も生み出さないでじっとしていることと、

 破壊的に転覆することとの間に通じる、

 狭い、山の背のような道を、用心深くたどらねばならない。」

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「法は、我々すべてを拘束するが、我々を守るものでもある。

 我々も法の制定に参加せねばならない。

 もし、制度の改善のために何もせず、共同体の管理に参加しないならば、

 自分たちの制度について不平を言う資格はない。」

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「健全な民主主義を維持し発展させていくためには、

 『建設的な』反対派による批判、審査が必要である。

 この反対派は、欠陥と不完全性を指摘し、えぐりだす。」

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