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Peter Ferdinand Drucker/P・F・ドラッカー3 傍観者の時代2

2010年1月29日 コメントは受け付けていません

「アメリカ国務長官としてのキッシンジャーの思想と行動はクレーマーの思想と行動そのものだ。

(中略)

 私たちは、お互いの答えが食い違っていることを直観した。

(中略)

 私たちの論題は、20を回ったばかりの若者の常で、多岐にわたった。

 とはいうものの、いつの話し合いでも、クレーマーは3つの考えを中心に自己の意見を組み立てた。

 この3つの考えは、彼の政治哲学のいわば三本柱であった。」

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「第一は、外交を内政に優先させなければならないという考えである。

 外交は国家の存亡に関わる

 ―――国家は外交によってその存続が保証されて初めて、憲法や法律、社会正義や経済に取り組むことができる、というのである。

 1930年代初頭のその当時、クレーマーは、

 この考えを20年後のドゴールほどに格調高く説いたとは言いかねるが、しかし力説した。

 私は、国家の存続が最重要事であることを認めた。

 けれども、外交がいついかなる場合にも内政に優先するという主張には得心がいかなかった。

 ―――今は当時以上に得心がいかない。

 古来、数多くの国が―――と、私は反論した―――他国に侵入され、征服されて倒壊したが、

 同じ程度に国内の腐敗によっても倒壊した―――

 外交の大家が内政を外交に従属させるために利用した手段そのものが、国家を崩壊させたのだ。

 彼らが採用した手段は、国を腐敗させ、歪にした。

 17世紀のフランスのリシュリューがそうだったし、

 19世紀初頭のオーストリアのメッテルニヒがそうだったし、

 とりわけ19世紀のドイツのビスマルクがそうだった。

 この点で手本にすべきだと私が見なしているのはエリザベス朝時代のイギリスの初代セシル、

 つまり女王の顧問でもあり外交の大家でもあったウィリアム・バーレーである。

 彼は、列強が相争っていたその当時、

 いかにしてでもイギリスを存続させなければならないことを明確に認識していた反面、

 常に外交と内政の調和に努め、両者のトレードオフと折衷の必要性を認めていたのである。」

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「クレーマーの第二の揺るぎない考えは、

 外交問題で他の何よりも重視しなければならないのは力だ、というものであった。

 彼のいう力とは、政治力であり、究極的には軍事力であった。

 クレーマーに言わせれば、外交問題で真剣な考慮に値するそれ以外の要素は唯一つ、

 超国家的な理念、たとえば宗教勢力ないしはマルクス主義のような現世的な主義信条である。

 もちろん、歴史家としても図抜けていた素養のあったクレーマーは、

 スターリンのように『法王は何個師団を保持しているのか』といった馬鹿げたことは言いはしなかった。

 けれども、超国家的な理念は本質的に、国益ないしは国力の制約となる、と見ていた。

 一般に国家は、国益に反する行動を、自らのイデオロギーの故にとるようなことはない。

 けれども国家はしばしば、最も国益に適う行動をとることを、

 自らのイデオロギーによって制約され、その結果として通常、手痛い目にあう、というのが彼の考えであった。

 地下のチャーチルもドゴールも、クレーマーのこの考えに共感を表明するに違いない。」

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「他でもない、クレーマーとの議論を通じて、

 私は初めて政治というものを───最適化の技術としての───、

 そして損害を最小にするような『トレードオフ』の探究としての政治というものを

 ───つきつめて考えさせられたのである。

 クレーマーはもちろん、こうした考えを受け入れようとはしなかった。

 彼は、究極的には外交と内政との間に折り合いをつけなければならないことを認めた。

 けれども、あくまで外交の優位という考え方が出発点であり、

 望ましい考え方であり、唯一の、純正な考え方であると主張していた。

 調和とトレードオフを通じての最適化という私の考え方は、

 しまりのない考えだ、と彼の目には映ったようである。

 事実、それはしまりのない考えである───不純な考えでないにしても。」

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「そして、チャーチルもドゴールもクレーマーも、

 経済は政治行動への動機付けになるし、政治行動に対する制約にもなる、

 という考えをまるで問題にしないか、軽視するに違いない。

 私がこの問題に経済という要素を持ち込もうとするたびに、

 クレーマーは、経済封鎖や経済制裁によって軍事降伏や政治降伏を勝ち取ろうとする試みがことごとく失敗に終わった事実を、

 あざけるような口調で指摘した───ナポレオンの大陸封鎖、

 南北戦争当時の北部連合による南部連合の封鎖、

 第一次大戦当時のドイツに対する封鎖をわざわざ引き合いに出すまでもあるまい、というのであった。

 経済力の強弱でさえほとんど問題にならない、とも彼は言った。

工業原料もなきに等しかったが、4年間も持ちこたえる事が出来た。

この場合にも、両国が敗北を喫したのは戦場での戦いに敗れたからである。

したがって政治家は、経済など一顧だにせずに政策を立案し、遂行すべきである、少なくとも経済の役割を───芝居にたとえて言えば、通行人の役割程度に───限定すべきである、というのがクレーマーの結論だった。」

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「クレーマーと私は、覇権争いは自滅に繋がると言う点では意見が一致した。

 二人とも、ツキュディデスがアテネ滅亡史の冒頭で覇権争奪の愚かしさに警告を発している事を知っていたし、

 その警告を肝に銘じていた。

 私たちはまた、弱小国と同盟を結んで『勢力圏(ブロック)』を作り、

 自国の地固めを強化しようとする大国の試みは効果がないという点でも意見が一致していた。

 この点については1930年代初頭のその当時、私たちには記憶に新しい事例があった。

 ───ビスマルク後のドイツと衰退の道をたどりつつあったオーストリアとの同盟がそれである。

 ドイツはこの同盟のおかげで力が強くなったどころか逆に行動の自由を失い、

 とどのつまり、オーストリアの無能と無責任の犠牲になって自殺的な戦争に巻き込まれる羽目になった。

 とはいうものの、歴史を振り返ってみれば、

 外交政策の基盤としての『従属国』の愚考の例も枚挙にいとまがない。

 ───他国を隷属させ、この体制を基盤として外交を展開するという政策は、

 例外なしに、『従属国』が逆に支配国になったり、

 無謀な従属国がへまをやらかす、という結果に終わっている。」

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「クレーマーは以上のことから、追求するだけの価値のある外交政策は唯一つ、

『大国間の力の均衡(balance
of
power)』を採る政策だ、という結論を引き出した。

 他の国は───どのような経済力や政治的結びつきを持っていようと───無視して差し支えない。

 弱小国には基本的に選択の余地はないのだ───現代風にいえば、行くべき場所はないのだ、というのである。

 それぞれのグループには───たとえば労働者やアメリカの黒人には───

『行くべき場所』はないのだ、といったような説は肯定できない。

 アメリカの政治家で、

 この通俗的な教えを守って成功した者がただの一人もいないのは決して偶然ではない。

 これらのグループは、そう易々と寝返りを打って他の側につくことは出来ないかもしれない。

 しかしその気になればいつでも、無視することができるのだ。

 したがって、力の等式には、力とイデオロギー以外の要素、たとえば経済などをも加味しなければならない。

 と同時に、力の均衡には『大国』と『中級国』の双方を組み込まなければならない。」

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「この論争は遠い昔から幾度となく蒸し返されてきた論争である。

 近年の世界の政治指導者について言えば、

 ルーズベルトとスターリンとドゴールの三人は、クレーマーの肩を持つに違いない。

 けれども、チャーチルは明らかに私の見解に近い。事実、テヘラン、ヤルタ両会談でも、

「大国が『総体的な』(たとえば『経済』のような要素も含めた)均衡を保ちながら、

 ヨーロッパの伝統的な諸国が『全面的に』(軍事、政治、経済においても)パートナーになる」という解決策を提案している。

 結局、チャーチルの意見は通らなかったけれども、これは言うまでもなく、

 十九世紀の構図『欧州協商』の構造であり、

『欧州協商』は1815年から1914年に至るまでの100年間、

 大規模な多国間戦争を防止するのに成功した唯一の、『力の均衡』の構図だったのである。」

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「クレーマーの第三の考えに対しては、私は薄ぼんやりとした考えからではなく、

 私の主義として反対した。

 クレーマーは、外相に偉材を求めた───というより、外相には偉材が就任しなければならない、と主張した。

 外交問題の処理と言う仕事は、政治的資質に対する最大の挑戦であり、

 天才を要求する、というのがクレーマーの考え方であった。

 私は当時、ビスマルクの外交上の一大勝利だった1878年のベルリン会議の直後に、

 時のイギリス首相ディズレーリが次のように評した事実を知らなかった。

「ドイツも哀れだな。ビスマルクは年寄りで先が見えている。

 ドイツはいずれ海兵隊の大尉あたりをあの巨人の後釜に据えるだろうが、

 どうせ臆病で何も出来ないか、酔っ払って彼と同じことが出来ると思い込むかのどちらかだ。

 もうすぐ、ドイツは敗れる。」

 ディズレーリの評言ではないが、歴史を読めば読むほど、天才外相はむしろ災いの種だな、との感を私は深めた。

 ドゴールですら、リシュリュー同様、ヨーロッパの覇権を握るという夢を追い続けて、

 フランスをヨーロッパの協商に統合しようとはしなかった。

 しかもドゴールですら、リシュリュー時代から300年も経っているというのに、

 フランスの外交政策を自国の資源と自国のニーズに適合させようとはしなかった。

 オーストリアはメッテルニヒの成功で滅び、ドイツはビスマルクの成功で滅びた。

 なぜか? ディズレーリが予言したように、

 偉大な外相の後を継ぐのは常に『海兵隊の大尉』か事務長程度の人物だからである。

 後継者はやがて、その職から退くか、悪くすると虚勢を張るようになる。

 天才外相は、彼のその飛びぬけた才能は、

 外部世界にいつまでも消える事のない不信感を植えつけることにもなる。

 リシュリュー、メッテルニヒ、ビスマルクに類する外交家は、

 昔からの原則『外交においては利口であってはならない。純粋、誠実であれ』を常に軽蔑して退ける。

 この人たちは利口である───だがその結果、策士、誠意に欠ける人物と見られがちである。」

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「フランクフルト時代のクレーマーとのえんえんと続いた議論を通じて、

 私はまず、偉材が国政を司ることの矛盾に気づいた。

 偉材にその任を託さなければ、ビジョン、リーダーシップ、業績は期待できない。

 凡人は何もかも台無しにしてしまう。

 けれども芸術や学問などの場合と違って、国政の場合には、個人の業績は長持ちしない。

 が、長持ちさせる必要がある。

 そのためには、偉材の後釜には偉材を据えなければならない。

 だが偉材が去った後にはほとんどの場合、人的空白が残る。

 結果、自分が受けた教練以外何も知らない、

 ディズレーリの言う『海兵隊の大尉』が後を継ぐ事になるのである。

 私は彼とえんえんと議論を重ねている間に、

 偉材が公の職務に就いている場合に生ずる矛盾、

 とりわけ組織の中で───政府、大学、企業のいずれを問わず───

 活動している場合に生ずる矛盾を解く事に、終生変わらぬ興味を抱いた。

 というのは、それが解消可能な矛盾だからである。

 セシル・バーレーは身辺に第一級の同僚を配し、

 また息子を一級の後継者に育て上げる事によってこの矛盾を解消した。

 ジョージ・ワシントンもまた優れた後継者を星のように残した。

 ジョージ・マーシャル将軍も同様だった。

 実業界の例では、その昔『大君』と中傷されたジョン・ロックフェラー一世や、

 アンドリュー・カーネギーがいるし、

 それ以前には日本の三井、三菱の創始者たちがいる。」

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「しかしながら、

 『海兵隊大尉』や事務長、くたびれた卑屈な下働きしか後を継ぐ者がいないという事態は、

 指導者が偉大だった場合だけに生ずる事態ではない。

 なかには、自らが力を有しているだけでなく、後継者に力をつける指導者もいる。

 これこそ真の『偉材』であり真の『指導者』である。

 この人たちは、世間一般に考えられている『偉材』とは、見かけも行動もまったく異なる。

 真の指導者は『カリスマ』で導くわけではない───

 たとえそれが宣伝係のでっち上げでなくとも、

 カリスマなど甚だうさんくさいものであり、いかがわしいものである。

 真に力のある指導者は、勤勉と献身によって導く。

 彼は全てを掌握しようとはせずに、組織を作る。

 彼は手管で支配しようとはせずに誠意で支配する。

 真の指導者は利口ではなく、純粋で誠実である。」

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「キッシンジャーの著作は、クレーマーの理論で精彩を放っている。

 しかも、ニクソン政権の国務長官に就任するや、

 1942年の新兵訓練の際にはじめてクレーマーから教示された政治哲学の三つの公理

 ───外交の優位、外交における力の優位、天才外相の必要性───を身をもって実践し始めた。

 これら三つの公理は、まさしくキッシンジャーの政策そのものであった。」

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「アメリカの外交政策を内政への従属から開放することは当時も今も緊急事項である。

 アメリカほどかんたんに外部世界の存在を忘れ、自国の国際的な力、競争力、友邦への影響を考慮せずに、

 各種の国内政策や国内計画を制定できる国は、これまで一つも存在しなかった。

 アラブ諸国の中にイスラエル国を設ける事に賛成する、といった重大な外交上の約束が、

 選挙戦での短期間の票集めで正当化される国は、これまでアメリカ以外に1国も存在しなかった。」

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「クレーマー・ドクトリンを文字通り信奉して、キッシンジャーは日本を無視したが、

 日本の頭越しの中国承認、1971年のドル切り下げの際の日本無視は、犯さずに住んだはずの大失態である。

 日本がその経済力で近い将来、太平洋圏の『大国』になることが目に見えているからである。

 キッシンジャーがヨーロッパの同盟国を無視したこと、

 その政策立案に経済的要因を採りいれなかったことも同じく、第一級の失策である。

 「中級国」は確かに「行くべき場所」がない───亡命する事は出来ない。

 しかし、支配国を見捨てる事は出来るのであり、事実、キッシンジャー時代の最初の外交危機、

 1973年の中東戦争でヨーロッパの同盟国はあっさりとアメリカを見捨てたのである。

 その後には、キッシンジャー政策はもはや残らなかった。

 クレーマー=キッシンジャー外交が最も嫌悪していたケース・バイ・ケースの即席外交だけが残った。

 だがそれでよかったのである。」

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「キッシンジャーの経験に何か意味があるとしたら、

 それは「天才外相」の理論が誤りであることを示した事である。

 それは空論であった。アメリカは確かに外交政策を必要としている。

 だが、それは国内政略という水面の上でコルクがはねるような外交政策であってはならない。

 力の均衡も必要である。だが、それは中級国をパートナーとして擁する、

 かつ、『力』の定義に潜在軍事力以外の要素をも含めた『力の均衡策』でなくてはならない。

 アメリカの外交政策にはリーダーシップが必要である。だがそれは、才知や手練よりも純粋さ、

 誠実さを基盤とするリーダーシップである事が強く望まれるのである。」

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「まったく君が羨ましい。僕も出来るなら出て行きたいよ。───でも無理だ。

 僕はナチの委員会でみんなの話を聞いているうちに怖くなった───でも僕も現にその一員なんだ。

 中には気違いもいて、ユダヤ人を皆殺しにしようとか、戦争をやろうとか、

 反対意見の奴や総統(ヒトラー)の言葉を信じない奴はぶち込むか殺すかしよう、と言っている。

 正気の沙汰じゃない。僕は恐ろしいんだ。

 君は一年前、ナチスは本気でそういうことを言っているんだ、と言ってくれた。

 でも僕は、大袈裟な宣伝文句で、本気であんな事を言っているんじゃないと思っている。

 20世紀なんだからね。

(中略)

 君は要するにわかっていないんだ、ドラッカー。

 僕は頭がよくない、それは分かっている。

 僕は君やアルネやベッカーよりも長く勤めている。君たち三人は幹部編集者になった。

 それなのに、僕は駆け出しの頃と相変わらず市役所回りだ。

 僕は文章が上手くない。それも分かっている。

(中略)

 いいかね、ドラッカー。僕は権力が欲しいんだ、金が欲しいんだ、一人前の人間になりたいんだ。

 だからこそ僕はナチスに入党したんだ。

 ぼくは『優れた人間になれるんだ』!

 頭のいい、育ちのいい、コネのある連中は選り好みをしすぎるし、融通が利かないし、汚い仕事をやろうとしない。

 今こそ僕という男が認められるチャンスなんだ。覚えてろ、今にきっと僕の評判を耳にするだろう。」

…P・F・ドラッカー『傍観者の時代』

 ユダヤ人虐殺、ドイツ人粛清の指揮をとり、仲間からも『怪物』と呼ばれていた、

 ナチス親衛隊(SS)副隊長、ラインホルト・ヘンシュとの会話

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「悪はいついかなる場合にも、とるに足らぬものではない。

 悪をなすのは多くの場合、取るに足らぬ者なのである。

(中略)

 悪がいつ如何なる場合にもとるに足らぬものでない反面、

 人が多くの場合取るに足らぬ存在だからこそ、

 人はどのような条件であれ悪と取引してはならない。

 それがつねに悪の提示する条件であって、人間の提示する条件ではないからである。

 人は、ヘンシュのように悪を利用して自己の野心を遂げようとするとき、悪の道具となり、

 シェイファーのように悪に加担してより大きな悪を阻止しようとするとき、悪の道具となるのだ。」

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#拍手を贈る

三木清 人生論ノート3

2010年1月29日 コメントは受け付けていません

三木清 人生論ノート1
 #三木清 人生論ノート2

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「評判を批評のごとく受け取り、

 これと真面目に対質しようとすることは、無駄である。

 いったい誰を相手にしようというのか。

 相手はどこにもいない、もしくはいたるところにいる。」

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「噂には誰も責任者というものがない。

 その責任を引き受けているものを我々は歴史と呼んでいる。」

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「われわれの生活は期待の上に成り立っている。」

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「期待は他人の行為を拘束する魔術的な力を持っている。

 われわれの行為は絶えずその呪縛の元にある。

 道徳の拘束力もそこに基礎を持っている。

 他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遙かに困難である。

 時には人々の期待に全く反して行動する勇気を持たねばならぬ。

 世間が期待するとおりになろうとする人はついに自分を発見しないでしまうことが多い。

 秀才と呼ばれたものが平凡な人間で終わるのはそのひとつの例である。」

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「ギブ・アンド・テイクの原則を

 期待の原則としてでなく打算の原則として考えるものが利己主義者である。」

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「人間が利己的であるか否かは、

 その受取勘定をどれほど遠い未来に伸ばしうるかという問題である。

 この時間的な問題はしかし単なる打算の問題でなくて、

 期待の、想像力の問題である。」

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「この世で得られないものを死後において期待する人は宗教的といわれる。

 これがカントの神の存在の証明の要約である。」

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「利己主義者は自分では充分合理的な人間であると思っている。

 そのことを彼は公言もするし、誇りにさえもしている。

 彼は、彼の理知の限界が想像力の欠乏にあることを理解しないのである。」

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「全ての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、

 想像力のない合理主義の産物である。

 社会の基礎は契約でなく期待である。

 社会は期待の魔術的な拘束力の上に建てられた建物である。」

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「どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。

 心の秩序を度外視してどのように外面の秩序を整えたにしても空疎である。」

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「秩序は生命あらしめる原理である。

 そこにはつねに温かさがなければならぬ。

 ひとは温かさによって生命の存在を感知する。」

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「また秩序は充実させるものでなければならぬ。

 単に切り捨てたり取り締まったりするだけで秩序が出来るものではない。

 虚無は明らかに秩序とは反対のものである。」

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「しかし秩序は常に経済的なものである。

 最少の費用で最大の効果を上げると言う経済の原則は秩序の原則でもある。」

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「最少の費用で最大の効果を挙げるという経済の法則が

 同時に心の秩序の法則でもあるということは、

 この経済の法則が実は美学の法則でもあるからである。」

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「近代デモクラシーは内面的にはいわゆる価値の多神論から無神論に、

 すなわち虚無主義に落ちてゆく危険があった。

 これを最も深く理解したのがニーチェであった。

 そしてかような虚無主義、内面的なアナーキーこそ独裁政治の地盤である。

 もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立ち直らなければならない。

 しかるに今日わが国の多くのインテリゲンチャは独裁を極端に嫌いながら

 自分自身はどうしてもニヒリズムから脱出することが出来ないのである。」

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「外的秩序は強制によっても作ることが出来る。

 しかし心の秩序はそうではない。」

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「人格とは秩序である。自由というものも秩序である。

 …かようなことが理解されねばならぬ。そしてそれが理解されるとき、

 主観主義は不十分となり、

 いくらか客観的なものを認めなければならなくなるだろう。

 近代の主観主義は秩序の思想の喪失によって虚無主義に陥った。

 いわゆる無の哲学も、秩序の思想、特にまた価値体系の設定なしには、

 その絶対主義の虚無主義と同じになる危険が大きい。」

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「感傷の場合、私は座って眺めている、

 立ってそこまで動いてゆくのではない。

 否、私はほんとには眺めてさえいないであろう。

 感傷は、なんについて感傷するにしても、

 結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。

 批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。

 真の批評は、真の懐疑は、物の中に入ってゆくのである。」

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「感傷的であることが芸術的であるかのように考えるのは、一つの感傷でしかない。

 感傷的であることが宗教的であるかのように考えるものに至っては、

 更にそれ以上感傷的であるといわねばならぬ。

 宗教はもとより、芸術も、感傷からの脱出である。」

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「瞑想は多くの場合感傷から出てくる。

 少なくとも感傷を伴い、或いは感傷に変わってゆく。

 思索するものは感傷の誘惑に負けてはならぬ。

 感傷は趣味になることができ、またしばしばそうなっている。

 感傷はそのように甘美なものであり、誘惑的である。

 瞑想が趣味になるのは、それが感傷的になるためである。」

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「全ての趣味と同じように、

 感傷は本質的にはただ過去のものの上にのみ働くのである。

 それは出来つつあるものに対してでなく出来上がったものに対して働くのである。

 すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。

 感情的な人間は回顧することを好む。

 ひとは未来について感傷することができぬ。

 少なくとも干渉の対象であるような未来は真の未来ではない。」

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「感傷は制作的でなく鑑賞的である。

 しかし私は感傷によって何を鑑賞するのであろうか。

 物の中に入らないで私は物を鑑賞しうるであろうか。

 感傷において私は物を味わっているのでなく、

 自分自身を味わっているのである。

 否、正確にいうと、私は自分自身を味わっているのでさえなく、

 ただ感傷そのものを味わっているのである。

 感傷は主観主義である。

 青年が感傷的であるのはこの時代が主観的な時期であるためである。

 主観主義者は、どれほど概念的或いは論理的に装うとも、

 内実は感傷家でしかないことが多い。」

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「感傷には個性がない。それは真の主観性ではないから。

 その意味で感傷は大衆的である。

 だから大衆文学というものは本質的に感傷的である。

 大衆文学の作家は過去の人物を取り扱うのが常であるのも、これに関係するであろう。

 彼らと純文学の作家との差異は、

 彼らが現代の人物を同じように巧みに描くことができない点にある。

 この簡単な事柄のうちに芸術論における種々の重要な問題が含まれている。」

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「行動的な人間は感傷的でない。

 思想家は行動人としてのごとく思索しなければならぬ。

 勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである。」

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「感傷には常に何らかの虚栄がある。」

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「思想が何であるかは、これを生活に対して考えてみると明瞭になるであろう。

 生活は事実である、どこまでも経験的なものである。

 それに対して思想には常に仮説的なところがある。

 仮説的なところのないような思想は思想とはいわれないであろう。

 思想が純粋に思想として持っている力は仮説の力である。

 思想はその仮説の大いさに従って偉大である。

 もし思想に仮説的なところがないとすれば、

 いかにしてそれは生活から区別されえるであろうか。

 考えるということもそれ自身としては明らかにわれわれの生活の一部分であって、

 これと別のものではない。

 しかるにそのものがなお生活から区別されるのは、

 考えるということが本質的には仮説的に考えることであるためである。」

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「仮説的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。

 仮説はある意味で論理よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。

 論理そのものが一つの仮説であるということさえもできるであろう。

 仮説は自己自身から論理を作り出す力をさえ持っている。

 論理よりも不確実なものから論理が出てくるのである。

 論理も仮説を作り出すものと考えられる限り、

 それ自身仮説的なものと考えられねばならぬ。」

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「すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、

 その逆でないということは、深く考えるべきことである。

 つまり確実なものは与えられたものでなくて形成されるものであり、

 仮説はこの形成的な力である。

 認識は模倣でなくて形成である。

 精神は芸術家であり、鏡ではない。」

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「しかし思想のみが仮説的であって、人生は仮説的でないのであろうか。

 人生もある仮説的なものである。

 それが仮説的であるのは、それが虚無に繋がるためである。

 各人はいわば一つの仮説を証明するために生まれている。

 生きていることは、ただ生きているということを証明するためではないであろう、

 ───そのような証明はおよそ不要である───

 実に、一つの仮説を証明するためである。

 だから人生は実験であると考えられる。───仮説なしに実験というものはありえない───

 もとよりそれは、何でも勝手にやってみることではなく、

 自分がそれを証明するために生まれた固有の仮説を追及することである。」

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「すべての思想らしい思想は常に極端なところを持っている。

 なぜならそれは仮説の追求であるから。

 これに対して常識の持っている大きな徳は中庸ということである。 」

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「誤解を受けることが思想家の常の運命にようになっているのは、

 世の中には彼の思想が一つの仮説であることを理解する者が少ないためである。

 しかしその罪の一片はたいていの場合思想家自身にあるのであって、

 彼自身その思想が仮説的なものであることを忘れるのである。

 それは彼の怠惰に依ることが多い。

 探求の続いている限り思想の仮説的性質は絶えず顕わである。」

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拍手を贈る

哲学者。岩波文庫の巻末にある『読者子に寄す』は三木氏によるものだそうです。

詳細はwikipediaで。

敗戦後にも関わらず、政治犯として獄死した日本の哲学者です。

ここで紹介している言葉は『人生論ノートからの引用です。

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三木清 人生論ノート1
 #三木清 人生論ノート2

カテゴリー:Wise remark/名言/人物

Peter Ferdinand Drucker/P・F・ドラッカー4 善への誘惑

2009年11月11日 コメントは受け付けていません

#20060228#作成

#20070131#掲載

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「伝統的なカトリック大学は、二流のレベルのままでは、アメリカでは存続できない。

(中略)

 大学が『偉大な大学』になればなるほど、

 それだけ完全に世俗化しなければならなくなるということだ。

 『偉大な大学』と『カトリック大学』の両方にはなれない。

 ジンマーマン神父の前提から帰結できる論理的結論はただひとつ、

 新教徒たち、すなわちハーバード、イエール、プリンストン、コロンビアなどが100年前にやったこと、

 つまり宗派性がなく、

 特定の教派との関係をなくして組織的宗教との束縛を一切断つことだけしかない。

 それは誰の害にもなっていないし、

 私の判断する限りでは、プロテスタントの諸宗派にも弊害とはならなかった。」

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「カトリックというのは、

 近代的学問などと同じような合理主義であってはならないという事は承知している。

 しかし反面、原理主義者などと同じように反知性主義のままではいられなくなっている。

 われわれがそうしようとするといつでも、

 私が出かけていって上品に騒ぎ立てなければならないような、

 あの恐ろしい、堕落して知的に破産した小さな学校のようなものにすぐと似てくるのだ。」

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「トム、君も知ってのとおり、

 ジンマーマンの論文を読み終わると、私は図書室に頼んで、

 セント・ジェロームのカレッジと大学院など学校全部の履修案内書を取り寄せてみた。

 各課目が行っているコースは、すべてをあわせると数千ページにも上る大したものになる。

 だが、神の知識に関係あると思われるもの、

 あるいは学生をそこまで導くと思われるものは、

 ごく僅かしか見つからなかった。

 事実、セント・ジェロームが教えているものと、

 大抵の非カトリック大学が教えているものとの間に、

 きわめて僅かな違いしか見出せなかったのだ。」

「ですが司教様、それならなぜ学習面をそれほど強調され、

 とくに教区内の司祭全員が世俗面での学問や専門的な学科でも

 高い学位を取るように要求されるのですか。」

「司祭はゼネラリストだ。

 そしてゼネラリストは、1つの分野でエキスパートであり、

 名人芸の水準を保持できるようにならねばならない。

 さもなくば、好事家(ディレッタント)になってしまう。

 これがマネジメントの原則というものだ。

 だが同時に、司祭はもはや無学文盲社会で唯一の読み書きできる人間ではない。

 教育のある俗人の尊敬をかちえるためには、

 学問や技術で彼らと同等でなければならないし、

 本当は彼らより優れていなければならないのだ。」

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「本当の悩みの種は、

 いったい誰のためにこんなことをやっているかがわからないことなのだ。

 アーウィン、

 この建物の玄関の入り口にかかった碑銘

『神のより大いなる栄光のために』を知っているだろう。

 ずっとこれまで毎朝、仕事に向かうとき、この文句は私の気分を昂揚させ、

 私は、『神のより大いなる栄光のために』と、一人口ずさんだものだ。」

「私もだよ」

「それが、例のハロウェイの一件があってからは全然だめなんだ。

 今では、碑銘のほうが私を嘲り、なぶるんだ。

 『私のより大いなる栄光のために』だと言ってね。

 すべてが、虚栄心、個人的な野心、勢力拡大欲、利己心、そして、

 自分は偉大な人間なのだと自分に示したいという欲望に他ならないと思えるんだ。」

「ハインツ、そんな言い方はすぐに止めるんだ。

 君の話し振りはまるで甘やかされたティーンエイジャーみたいだぞ。

 君は、哲学や論理学、そして神学で学んだ事を全部忘れてしまったのか。

 真の利己心のありかを知っている人こそ聖人だという定義を忘れてしまったのか。

 仕事が重要で、仕事をする人間が重要じゃないっていうのか。

 自分がやり遂げた事を知らないのは、愚劣なんてもんじゃない。それ以上だ。

 それは一つの罪だ。」

「アーウィン、君が私を助けようとしている事、

 また好意でそういってくれていることもよくわかる。

 心より感謝している。本当だ。

 しかし、君の言うことは完全に詭弁であり、君もまたそれを知っている。」

「もっとひどい言い方をされた事もあるがね。

 しかし、君には、自己の責任から逃れて、

 心の痛手や自己憐憫などに逃げ込むような真似は出来ないはずだ。」

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「私を悩まし、狼狽させ、混乱させているのは、

 自分が全然変わっていないとわかったことなんだ。

 修道院に入る前に付き合った女の子たちを利用したのと全く同じやり方で、

 人々を利用している。

 自分の目的のために、自分の達成したい事のために、

 そして、自己満足と、自己の栄光のために、利用しているんだ。」

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「ジンマーマン神父は回復しないでしょう。

 何に苦しんでいるにせよ、

 自分自身と今までやってきた事に、自信と信念を無くされたようです。

 彼は地位を追われたのではなくて、

 最初の挑戦の際に、自ら退位してしまったのです。」

「君が描き出してくれた全ての些細な事は、単なる兆候に過ぎないと言いたい。

 本当の問題点はもっと深いところにあると私は確信している。

(中略)

 カトリック大学が第一級になるには何をすべきか、

 『第一級の大学』がカトリックであるには何をすべきか、という点だ。」

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「だが、本当の問題点が何であるにしても、

 我々はハインツ・ジンマーマンを助けなければならない。

 彼の唯一の罪は、官僚としてではなく、クリスチャンのように、司祭のように、

 善きことをなすという誘惑に屈したことにあるんだよ。」

###

「司教様とそのご立派な聖務には満腔の敬意を表しはいたしますが、

 もし私が管理職につかなければならないとすれば、

 教会よりもビジネスのほうが行動範囲が広く、

 大きな貢献ができるものと思われます。

 聖職においては、規則、規定、事務処理が全てです。

 主な仕事は、現状維持、変化を防ぎ、刷新を思いとどまらせ、実験を試みようとしない事です。

 前にも何回かうまくいったことをほどほど上手にする事です。

 そして管理の仕事といっても、ほとんどは些細な事ばかりです。

 あなたのお時間とエネルギーがどれほど多く、

 アルコール中毒の司祭たちの看護のために費やされているかをご存知でしょうか。

 そして次は政治的な駆け引きや力関係です。

 もううんざりです。

 もし、主が本当に私に管理職になれといわれるのでしたら、

 どんなに聖職が好きであっても、私はその中では動きません。」

###

「トムは間違っている。小教区の司祭が無事に仕事が務まるのは、

 だれかが私の今いるような地位にいて、事務処理の面倒を見たり、

 アルコール中毒の司祭や細かい力関係上の心配をしたり、

 また人を教育啓発し、正しく配置しているからこそなのだ。

(中略)

 しかし、セント・ジェロームでの事件を見たあとでもあり、

 善への誘惑に負けたくないと思うのも、もっともなことだ。」

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「『しかし、おまえ自身についてはどうなのだ。』

 オマーリー司教は突然自分に向かっての問いを投げかけた。

 すると、暗稽たる絶望の高まりが起こり、

 司教は両手で頭がゆれないように支え、

 吐き気とめまいと戦わなければならなかった。」

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「皆が不道徳なるものについて話すとき、

 通常の意味としてはそれは肉欲の罪のことである。

 だが、精神の罪はそれ以上に不道徳である。

 それは、うぬぼれや妬みの罪であり、隣人に対して偽証を成す罪でもある。」

「私はそういった罪を相手に戦うことなく、それに屈服し、

 その善良な人間を、優れたクリスチャンを、同僚の司祭を犠牲にしたうえ、

 ローマ教皇使節からの詰問や議論や批判や具合の悪い事実の公表などを避けてきた。

 しかも、その怠慢と失敗を罰せられることなく

 <大司教>にされるほど褒められ報いられているのだ。」

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「確かに、そうすることは正しいことなのだ、といつも自分に言い聞かせる事は出来る。

 キャピタル・シティは何年も前に、大司教区になるべきだった。

『私の』聖職者たちのために、

 そしてこのニュースが大きな喜びと誇りをもたらす教区内の信者たちのために、

 それを行っているのだと自分を納得させる事も出来る。

 それは一応の真実だが、必ずしも、全く真実とは言えない。

 自分でもそれを望んでいるのがわかっているし──────

 さらにまずいことに、それが楽しみとなる事も知っているのだ。」

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#拍手を贈る

ゲーテ『ファウスト』の望楼守。変化を告げる者。社会生態学者。マネジメント開発者。

クレアモント大学院の教授。オーストリア出身の文筆家。

誕生日を8日後に控えて2005年11月11日逝去。享年95歳。

05年11月19日、ドラッカー学会 Workshop for Studies of Peter F. Drucker’s Management Philosophyが設立されました。

他にドラッカー年譜、訳者である上田惇生ホームページドラッカー アーカイブ(英語)

ドラッカー スクールドラッカースクール 日本語ページなどがあります。

ヒトラーにインタビューし、チャーチルに『「経済人」の終わり』で激賞を受け、

各国の民営化(再民間化のほうがしっくりくる)の方向を位置づけ、『創造的破壊』の提唱者シュンペーターと父が知り合いでした。
また、メアリー・パーカー・フォレット:管理の予言者の著者でもあり、その表紙で『フォレットはマネジメントの予言者であった』と語っています。

ここでは主に『歴史の哲学』、『変革の哲学』、『経営の哲学』、『仕事の哲学』、

傍観者の時代(ドラッカーわが軌跡)から紹介させていただいています。

 政治、行政、経営、経済、芸術、思想、あらゆる分野に従事される方に読んでいただきたい本です。

Peter Ferdinand Drucker/P・F・ドラッカー3 傍観者の時代1

2009年11月9日 コメントは受け付けていません

#20051128#作成

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「私の教師観察は早くから、教師にとっては特定の模範といったものはないし、

 一つだけの適正な手法といったものもないという結論に私を導いた。

 人を教えられるか否かは、天稟(てんりん)の有無による。

(中略)

 が、徐々に、私は別種の教師をも発見するに至った。

 もっと正確に言えば、学習[習得]を産み出す人たちを発見するに至った。」

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「その人たちは、『教師』たることによって

 ───言い換えると天与の人格によって───学習[習得]を産み出すのではない。

 その人たちは、学生を学習に導く手法を通じて、そうするのである。

 この人たちはまず個々の学生の強み[得手、長所]を見つけ出す。

 それらの強みを伸ばすために目標を設定する。それも、長期目標と短期目標の

双方を設定する。

 しかるのちに、この人たちは、学生の弱み[不得手、欠点]に関心を向ける。

 ───弱みが、強みの完全な発揮を制約するものとして現れるからである。

 次いで、学生に、自己の成果からのフィードバックを確実に得させる。

 ───自己を統制し、自己を方向づけられるようにするためである。」

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「この人たちは、批判せずに賞賛する。

 しかし、この人たちは賞賛を控えめに利用するので、

 賞賛は刺激剤としての力をいつまでも失わないし、

 学生にとっての主たる報酬である達成感、自負心に取って代わることもない。

 この人たちは、『教えない』。

 学生が効果的に学習しえるような計画を立てるだけである。」

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「ものを『教える』ということは、主題についての知識ないしは『意思疎通技能』の関数ではない。

 それは別種の資質である。

『教えること』の究極の産物は、教師自体に生ずるものではない。

 生徒に生ずるもの、すなわち習得なのである。」

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「教師には二種類ある。

 天賦の才を『有する』教師と、学習を計画的なものにする方法を心得ている『教育学者』である。

 教師は、生まれるものである。生まれながらの教師は向上し、より良い教師になれる。

 一方、教育学者は学生に学習を可能にさせる、ほとんど全ての学生に学習を可能にさせる手法を持っている。

 その意味で、生まれながらの教師は、

 自分の天賦の才に教育学者の手法を付け足せば、極めて容易に『偉大な教師』になれる。

 そればかりか、小集団にも大集団にも、初心者にも『大家クラス』にも教える事が出来る『万能教師』にすらなれる。」

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「ソクラテスがソフィストを批判したのも、彼らが『教える事』を重視し、

 教師が『主題を教える』のだと彼らが考えていたからに他ならない。

 これは怠慢であり、自惚れである、とソクラテスはみなした。

 教師が『学習法を教え』、学生が『主題を学ぶ』のである。

 学習は実を結ぶ行為であり、教える事は思い上がり、瞞着行為なのである。

 これゆえにデルファイの神託は彼を『ギリシア最高の賢人』と呼んだのである。」

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「今日に至るまでのほぼ二千年にわたって、

 ソフィストが───教授法を教える事が出来ると約束している者が───支配的地位を占めてきた。

 彼らが最高の勝利を収めた事は、博士号───すなわち高等専門科目知識───は、

 教えることへの適切妥当な───そして唯一の───備えであるとする考えを、

 アメリカの高等教育機関が盲信していることによって明らかである。

 が、ソフィストが支配してきたのは西方だけである。

 教師に相当するインド語は『グールー』であり、そは生まれるものであって作られるものではない。

 彼には権威がある、が、それは大学の講座の権威ではなく霊の権威である。

 同様に、日本の『先生』も『教師』というよりも『先達』

(『先に立って導いていく人。案内者。───三省堂「大辞林第二版』)である。

 しかるに西方においては技能としての教授のみが重視され、

 ソクラテスが認識していた次の事実が閉却されてきたのだ───

 『教授は天賦の才であり、学習は技能である』」

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「私たちは、学習が、私たち一人一人に組み込まれていることを再発見した。

 人間が、いやそれどころか、生きとし生けるものが『学習機関』であり、

 学習するよう『プログラム』されていることを再発見した。

(中略)

 ソクラテスの時代以来、二千年にわたって我々は、

教授と学習は『認識』なのか『行動』なのかを論じてきた。

 これは似非(エセ)論争である。教授と学習は認識でもあり行動でもあるのだ。

 けれどもそれは別のもの───情熱でもあるのだ。

 教師は情熱から出発する。

 教育学者は、彼が学生の開眼、向上に陶酔した時、情熱が湧く。

 学生の表情に浮かぶ、学び得たことへの喜びの微笑みは、

 麻薬以上に、いや何にもまして、彼を惑溺させる中毒性物質なのである。

 この情熱こそが、教室を死に至らしめる病、

 教授と学習を決定的に阻害する唯一の条件、『教師の退屈』を防止するのだ。」

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「教師の場合には、情熱は彼の中にある。

 教育学者の場合には、学生の中にある。が、いつ如何なる場合にも、教授と学習は情熱なのである。

 生来の情熱ないしは日毎にそれへの耽溺の度を深める情熱なのである。

 教師と教育学者には、もう一つ共通点がある───両者とも、自ら責任を負うのだ。

(中略)

 真の教師、真の教育学者にとっては、出来の悪い生徒もいなければ愚かな学生も怠け者の学生もいない。

 あるのはただ、いい教師か駄目な教師かだけなのである。」

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「ポラニ家は確かに特異な一家だった。―――私の知る限り、疑いもなく最も特異な一家だった。

 そればかりか最も才能に恵まれた一家でもあった。

(中略)

 ポラニ家のそれぞれが、多大の業績をあげた。

 が、それぞれが、自分の目指した偉業を達成することができなかった。

 彼らの誰もが、社会による救済なるものを信じた。

 が、やがて社会に見切りをつけ、社会に望みを失った。」

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「社会主義は、1914年8月に起こった砲声とともに、

 社会主義大衆がプロレタリアートとして団結することを拒否し、

 そのかわりにナショナリズムと兄弟殺しの戦争を熱烈に支持した時に、死滅した。

 それは神学としてのマルクス主義の終焉ではなかった。―――神学は、信仰が終わっても生き残る。

 それは、政治勢力としての社会主義の終焉でもなかった。

 それは、夢としての、少なくともある世代全体にとっての夢としての、社会主義の終焉だった。」

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「イギリスの没落は、

 ビクトリア朝末期ないしはエドワード朝初期に始まったとするのが、今日のはやりである。

 けれどもイギリスの没落の主たる要因が、

 第一次世界大戦でイギリスの指導的グループがごっそりと死に、

 辛うじて生き残った者たちが士気を阻喪してしまった事実にあるのはまず確かである。

(中略)

 フランスでは「テクノクラト」が、知的訓練を受けた、

 エコール・ポリテクニックのような「大学校(グラン・デコル)」の卒業生たちが、

 指導者としての役割を担った。

 第二次大戦後のドイツでは、団体役員、会社の経営者、労働組合の幹部が、正統派指導者として登場した。

 ところがイギリスでは、第一次世界大戦で傷つき倒れた者のかわりがいなかった―――

 誰の権威も是認されなかったし、誰一人として責任を引き受けようとしなかったのである。」

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「おそらくは、現に私たちが望みうる最良のものではないかと思われる社会では、

 私たちは自由を維持するために代償を支払わなければならない―――分裂、分割、市場の隔離、である。

 私たちは「個人」を維持するために、葛藤、危険を伴う選択、

 多様化という代償を払わなければならないのである。

 そういった社会では、私たちはより大きな善よりもより小さな悪を目指さなければならない。」

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「このことが意味しているのは―――

 現代人にとってバール(古代セム族の神。八百万の神に似て、自然の生活力の象徴として崇拝されていた)であり、

 モーラック(古代セム族の神。礼拝の儀式として親が捧げた子を焼き殺したといわれる)でもある―――

 「社会」自体がもはや二義的なものになるかもしれないし、

 ひいては社会の組織が究極的には重要でなくなるばかりか問題でもなくなるかもしれない、ということだ。」

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「無謬の宗教」が、現に消滅しつつある「社会の時代」に二義的なものになったように。

「無謬の社会」なる概念が相変わらず幅を利かせ、

 それを探求する試みが世界を非寛容、自由の完全な喪失、

 自己破壊的戦争という大渦に巻き込まれようとしている今日、

「社会の時代」の消滅はまだ遠い将来のことのように思えるかもしれない。

 けれども、

 16世紀末から17世紀初めにかけてカトリシズムとプロテスタンティズムの新たな統合を目指した才気溢れる思想家たちの挫折が、

 50年後における「無謬の宗教の時代」の終焉の前触れだったことを思うとき、

 資本主義と社会主義を越える第3の社会を目指したポラニ一家の挫折が「無謬の社会の時代」の終焉の前触れでないとどうして言い切れよう?」

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#拍手を贈る

Peter Ferdinand Drucker/P・F・ドラッカー2

2009年10月22日 コメントは受け付けていません

#20041026#

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「潜在機会の発見とその実現には、心理的な困難が伴う。

 確立されたものの破壊を意味するがゆえに、内部の抵抗を受ける。

 それはしばしば、その組織が最も誇りにしてきた能力の放棄を意味する。」

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「一般には、イノベーションが変化を作り出すと考えられている。

 しかし、そうであることは稀である。

 成功するイノベーションは、すでに起こった変化を利用する。

 変化そのものと、それが知覚され受容されるまでのタイムラグを利用する。」

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「起業家のアプローチとしては、互いに補完関係にある二つの方法がある。

 第一に、経済や社会の不連続性の発生とそれがもたらす影響との間の時間的な差を発見し、利用することである。

 すなわち、すでに起こった未来を予期することである。

 第二に、来るべきものについて形を与えるためのビジョンを実現すること、

 すなわち自ら未来を発生させることである。」

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「変化を利用する者は、激しい競争に直面することがほとんどない。

 他の者たちが、相変わらず昨日の現実にもとづいて仕事をしているからである。」

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「変化はコントロールできない。できることは、その先頭に立つことだけである。」

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「起業家たる者にとって、現実が変化した原因を知る必要はない。

 何が起こったかはわかっても、なぜ起こったかはわからないほうが多い。

 だが、なぜ起こったかはわからなくとも、イノベーションに成功することは出来る。」

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「社会学者や経済学者が認識の変化を説明できるか否かは関係ない。

 認識の変化はすでに事実である。多くの場合、定量化できない。

 定量化できたとしても、その頃にはイノベーションの機会とするには間に合わない。

 だがそれは、理解できないものでも、知覚出来ないものでもない。

 きわめて具体的である。明らかにし、確かめることが出来る。」

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「今にもイノベーションが起こりそうでありながら、

 何も起こらないという期間が長期にわたって続く。

 そして突然、爆発が起こる。

 数年にわたる開放期が始まり、興奮と乱立が見られ、脚光が当てられる。

 五年後には整理期が始まり、わずかだけが生き残る。

 ブームの後では、新規参入は事実上不可能となる。」

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「イノベーションの欠如こそ、既存の組織が凋落する最大の原因であり、

 マネジメントの欠如こそ、新事業が失敗する最大の原因である。」

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「今日無名の企業の多くが、今日行っているイノベーションによって明日リーダー的な地位を得る。

 逆に今日成功している企業の多くが、一世代前のイノベーションの成果を食い潰しながら安逸を貪っている危険がある。」

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「組織が生き残りかつ成功するには、自らがチェンジ・エージェントすなわち変革機関とならなければならない。

 変化をマネジメントする最善の方法は、自ら変化を作り出すことである。」

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「イノベーションに優れた企業は、

 ほぼ三年ごとに全ての製品、プロセス、技術、サービス、市場を死刑の裁判にかける。

 この製品やサービスを手がけていなかったとしてなお始めるかと問い、

 答えがノーであるならば、検討しようとは言わずに、どう手を引くべきかを問う。」

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「組織は行うことすべてについて、絶えざる改善、日本で言うカイゼンを行う必要がある。

 歴史上あらゆる芸術家が、体系的かつ継続的な自己改善を行ってきた。

 改善の目的は、製品やサービスを改良し、二、三年後には全く新しい製品やサービスにすることである。

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「既存の事業について発すべき問いは「この活動は必要か。なくてもすむか」である。

 答えが必要であるならば、次に発すべき問いは「必要最小限の支援はどれだけか」である。

 これに対し、イノベーションについて発すべき第一の問いは「これは正しい機会か」である。

 答えが然りであるならば、第二の問いは「注ぎこむことのできる最大限の優れた人材と資源はどれだけあるか」である。」

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「イノベーションとは、顧客にとっての価値と満足の創造に他ならない。

 したがってイノベーションに優れた企業は、イノベーションの評価を科学的、技術的な重要度によってではなく、

 市場や顧客に対する貢献度によって行う。」

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「マネジメントたる者は、自らの手に委ねられた人的資源に使える怠惰な執事にとどまらないためにも、

 未来において何かを起こす責任を受け入れなければならない。

 進んでこの責任を引き受けることが、たんに優れた企業から偉大な企業を区別し、

 サラリーマンから事業家を峻別する。」

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「ベンチャーは、予期せぬ市場を利用できるよう自らを組織しておかなければならない。

 市場志向、市場中心でなければ、競争相手のために機会を作っただけに終わる。」

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「ベンチャーの挫折の原因は常に同じである。

 第一に、今日のためのキャッシュがない。

 第二に、事業拡大のための資本がない。

 第三に、支出や債権を管理できない。」

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「ベンチャーの起業家が、金に無頓着であることはあまりない。きわめて貪欲である。

 彼らは利益を重視する。だが、それは間違った態度である。

 利益は結果としてもたらされるものであって、最初に考えられるべきものではない。

 利益よりも、キャッシュ、資本、管理のほうが大事である。」

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「成長には栄養が必要である。成長とは、資金の余剰ではなく資金の不足を意味する。

 ベンチャーは、成長が健全であって早いほど、より多くの資金上の栄養を必要とする。」

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「事業にとって重要な活動について、主な人たちと相談しなければならない。

 創業者など主な人たちの一人ひとりが、自分が得意とするものは何か、

 他の人たちが得意とするものは何かを考えなければならない。

 それぞれの強みに応じて、誰かがいずれの活動を担当すべきか、

 誰がどの活動に向いているかを検討しなければならない。

 こうして、ようやくトップマネジメントチームが構築される。」

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「創業者の判断や強みを問題に出来る外部の人間が必要である。

 創業者たる起業家に対し、問題を提起し、意思決定を評価し、

 市場志向、財務見通し、トップマネジメントチームの構築など生き残りの条件を満たすよう絶えず迫って行く必要がある。

 これこそ、ベンチャーが起業家マネジメントを実現するための最大の要件である。」

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「成長は、事業の成功によって自動的にもたらされるものではない。成長は不連続である。

 ある段階で自らを変えなければならない。」

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「成長できないのであれば、事業の内容を良くしなければならない。

 組織には挑戦すべき目標が必要である。」

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「十年以内に規模を倍に出来ないのであれば、資金、人、資源の生産性を倍にする目標を掲げなければならない。

 生産性の向上はつねに現実的な目標であり、常に実現可能な目標である。」

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「人的資源の能力を維持し、その生産性を向上させ続ける企業は、必ずや大きな成長の機会に出会う。」

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「政府、学校、病院、NPOなどの公的機関も、

 起業家としてイノベーションを行わなければならない。

 むしろ、企業以上にイノベーションを行うことが必要である。」

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「公的機関のイノベーションや起業家精神が見られないのは、

 退嬰的な月給泥棒、権力マニアの政治屋の抵抗によるものとされている。

 だが、事態はそれほど簡単ではない。

 改革論者の万能薬たる人の入れ替えによる解決は、幻想に過ぎない。」

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「公的機関は、成果ではなく予算にもとづいて活動する。他のものの稼ぎから支払いを受ける。

 納税者や寄付者から支払いを受ける。予算は、活動が大きいほど大きくなる。

 しかも公的機関の成功は、業績ではなく獲得した予算によって評価される。

 活動の一部を捨てることは、自らの縮小を意味する。地位と権威の低下を意味する。」

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「公的機関は、多様な利害関係を抱える。

 活動の成果が収入の原資になっていないために、あらゆる種類の関係者が拒否権を持つ。

 あらゆる人たちを満足させなければならない。いずれとも不和になる余裕がない。

 しかも、事業を開始した瞬間から、廃止や修正を拒否する関係者を抱える。」

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「公的機関は、実現可能な目標を持たなければならない。

 目標は空腹の根絶ではなく、飢餓の減少でなければならない。

 公的機関は実現可能な目標を必要とする。

 達成したといえる目標を必要とする。」

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「公的機関といえども、目標は、大義ではなく費用対効果にかかわるものとしてとらえなければならない。

 いかに努力しても達成できない目標は、目標として間違っていると考えるべきである。

 目標を達成できないからといって、さらに努力すべき理由としてはならない。」

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「公的機関は、イノベーションの機会の追求を自らの活動に組み込んでおかなければならない。

 変化を脅威としてではなく、機会としてみなければならない。」

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#拍手を贈る

Peter Ferdinand Drucker/P・F・ドラッカー1

2009年10月18日 コメントは受け付けていません

#20041023#作成

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「先進国社会は、自由意志によって職業を選べる社会へと急速に移行しつつある。

 今日の問題は、選択肢の少なさではなく、逆にその多さにある。

 あまりに多くの選択肢、機会、進路が、若者を惑わし悩ませる。」

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「社会は一人ひとりの人間に対し、自分は何か、何になりたいか、何を投じて何を得たいかを求める。

 この問いは、役所に入るか、企業に入るか、大学に残るかという俗な問題に見えながら、

 実は自らの実存にかかわる問題である。」

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「今日ふたたび我々は、

 昔からの問いである一人ひとりの人間の意味、目的、自由という根源的な問題に直面している。

 世界中の若者に見られる疎外の問題が、この問いに答えるべきことを迫っている。

 組織社会が、選択の機会を与えることによって、一人ひとりの人間に意思決定を迫る。

 自由の対価として責任を求める。」

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「最初の仕事はくじ引きである。最初から適した仕事に就く確率は高くない。

 しかも、得るべきところを知り、向いた仕事に移れるようになるには数年を要する。」

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「得るべきところはどこかを考えた結果が、今働いているところでないということならば、

 次に問うべきは、それはなぜかである。

 組織が堕落しているからか、組織の価値観になじめないからか。

 いずれかであるならば、人は確実に駄目になる。

 自らの価値観に反するところに身を置くならば、

 人は自らを疑い、自らを軽く見るようになる。」

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「企業という柔軟で流動的な組織さえ、人を同じ仕事、同じ環境に閉じ込めようとする。

 閉じ込められているほうは飽きる。燃え尽きたのではない。

 違う種類の挑戦に応ずべく、新しい環境に置かれること、

 すなわち植え替えられることが必要なだけである。」

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「あらゆる者が、強みによって報酬を手にする。弱みによってではない。

 最初に問うべきは、我々の強みは何かである。」

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「仕事を変え、キャリアを決めるのは自分である。

 自らの得るべきところを知るのは自分である。

 組織への貢献において、自らに高い要求を課すのも自分である。

 飽きることを自らに許さないよう予防策を講じるのも自分である。

 挑戦し続けるのも自分である。」

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「未来は明日作るものではない。今日作るものである。

 今日の仕事との関係のもとに行う意思決定と行動によって、今日つくるものである。

 逆に、明日を作るために行うことが、直接、今日に影響を及ぼす。」

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「優れた者ほど間違いは多い。それだけ新しいことを試みるからである。

 一度も間違いをしたことのない者、

 それも大きな間違いをしたことのない者をトップレベルの地位に就かせてはならない。

 間違いをしたことのない者は凡庸である。

 そのうえ、いかにして間違いを発見し、いかにしてそれを早く直すかを知らない。」

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「人生から何を得るかを問い、

 得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、

 人は人として成熟する。

 組織から何を得るかを問い、

 得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、

 人は人として自由となる。」

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「意思決定についての教科書の第一ページは、事実を収集せよである。

 だが、問題を定義し分類しないことには、それは不可能である。」

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「問題の定義と分類なくして、事実を知ることはできない。データを知りうるのみである。

 問題の定義と分類によってのみ、意味あるデータ、すなわち事実を知ることができる。

 面白いが関係のないデータから解放される。」

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「重要なことは、明日何をなすかではない。不確実な明日のために、今日何をなすかである。」

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「正しい構造が成果を約束してくれるわけではない。

 しかし、間違った構造は成果を生まず、最高の努力を無駄にする。」

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「すでに一つのことが確実である。

 根本的な変化が続く時代に入ったということである。」

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「既存のものは古くなる。あらゆる意思決定と行動が、それを行った瞬間から古くなりはじめる。

 したがって、通常の状態に戻そうとすることは不毛である。通常とは昨日の現実にすぎない。」

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「未来は明日作るものではない。今日作るものである。

 今日の仕事との関係のもとに行う意思決定と行動によって、今日つくるものである。

 逆に、明日を作るために行うことが、直接、今日に影響を及ぼす。」

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「すでに起こった未来を見つけ、その影響を見ることによって、新しい知覚がもたらされる。

 新しい現実が見える。まず必要なことは、見えるようにすることである。

 できることや、しなければならないことは、そのあと簡単に見つかる。」

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「未来を予測しようとすると罠にはまる。行うべきことは、現在あるものをマネジメントすることである。

 そして、将来ありうべきものや、あるべきものを自ら創造するべく働くことである。」

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「未来に何かを起こすには、勇気を必要とする。努力を必要とする。信念を必要とする。

 その場しのぎの仕事に身を任せていたのでは、未来は作れない。

 未来にかかわるビジョンのうち必ず失敗するものは、

 確実なもの、リスクのないもの、失敗しようのないものである。」

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「変化をマネジメントする最善の方法は、自ら変化を作り出すことである。」

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「チェンジ・エージェントたるための要点は、組織全体の姿勢を変えることである。

 全員が、変化を脅威でなくチャンスとしてとらえることである。」

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「変化への抵抗の底にあるものは無知である。未知への不安である。

 しかし、変化は機会と見なすべきである。変化を機会としてとらえたとき、初めて不安は消える。」

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「自らの製品、サービス、プロセスを陳腐化させることが、競争相手による陳腐化を防ぐ唯一の手立てである。」

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「イノベーションを行うには、組織全体に継続学習の風土が不可欠である。

 イノベーションを行う組織では、継続学習の空気を生み出し、それを維持する。

 ゴールに達したと考えることを許さない。学習を継続すべきプロセスとする。」

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「イノベーションには、他のあらゆる仕事と同じように、才能、創意、知識が必要である。

 しかし、本当に必要とされるのは、激しく集中的かつ体系的な仕事である。

 勤勉、忍耐、決意が欠けていたのでは、せっかくの才能、創意、知識も役に立たない。」

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「あらゆる活動にリスクが伴う。

 だが昨日を守ること、すなわちイノベーションを行わないことのほうが、

 明日を作ることよりも大きなリスクを伴う。」

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「リスクの有無を行動の基盤としてはならない。リスクは行動に対する制約に過ぎない。」

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#拍手を贈る

三木清 人生論ノート2

2009年10月14日 コメントは受け付けていません

三木清 人生論ノート1
 #三木清 人生論ノート3

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「生命とは虚無を掻き集める力である。

 虚無を掻き集めて作られたものは虚無ではない。」

 

 

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「現代の混乱といわれるものにおいて、あらゆるものが混合しつつある。

 対立するものが総合されてゆくというよりもむしろ

 対立するものが混合されていくいうのが実際に近い。

 この混合から新しい形が出てくるであろう。」

 

 

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「形の形成は総合の弁証法であるよりも混合の弁証法である。

 私の言う構想力の論理は混合の弁証法として特徴づけられねばならぬであろう。

 混合は不定なものの結合であり、

 その不定なものの不定性の根拠は虚無の存在である。

 あらゆるものは虚無においてあり、

 かつそれぞれ特殊的に虚無を抱いているところから混合が考えられる。

 虚無は一般的な存在を有するのみでなく、それぞれにおいて特殊的な存在を有する。」

 

 

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「混合の弁証法は虚無からの形成でなければならぬ。

 カオスからコスモスへの生成を説いた古代人の哲学には深い真理が含まれている。

 重要なのはその意味をどこまでも主体的に把握することである。」

 

 

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「感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。

 むしろその逆がいっそう真理に近い。

 感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、

 知性こそ主観的なもの、人格的なものである。

 真に主観的な感情は知性的である。

 孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。」

 

 

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「真理と客観性、従って非人格性とを同一視する哲学的見解ほど有害なものはない。

 かような見解は真理の内面性ではなく、また特にその表現性を理解しないのである。」

 

 

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「嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。

 一般的なものに関して人は嫉妬するのである。

 これに反して愛の対象となるのは一般的なものでなくて特殊的なもの、個性的なものである。」

 

 

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「もし無邪気な心というものを定義しようとするなら、

 嫉妬的でない心というのが何よりも適当であろう。」

 

 

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「嫉妬心をなくすために、自信を持てと言われる。

 だが自信はいかにして生ずるのであるか。

 自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も得られない。

 人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。

 個性的な人間ほど嫉妬的でない。

 個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。」

 

 

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「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、

 人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。

 自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。」

 

 

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「他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。

 幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、

 成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。

 だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴いやすい。」

 

 

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「streber―――

 このドイツ語でもっとも適切に表される種類の成功主義者こそ、俗物中の俗物である。

 他の種類の俗物は時として気まぐれに俗物であることをやめる。

 しかるにこの努力家型の成功主義者は、決して軌道を外すことがないゆえに、

 それだけ俗物として完全である。」

 

 

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「近代的な冒険心と、合理主義と、オプティミズム(楽観主義)と、

 進歩の観念との混合から生まれた最高のものは企業家精神である。

 古代の人間理想が賢者であり、中世のそれが聖者であったように、

 近代のそれは企業家であると言い得るであろう。

 少なくともそのように考えられるべき多くの理由がある。

 しかるにそれが一般にはそのように純粋に把握されなかったのは近代の拝金主義の結果である。」

 

 

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「私は今ニーチェのモラルの根本が成功主義に対する極端な反感にあったことを知るのである。」

 

 

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「瞑想はつねに不意の客である。

 私はそれを招くのではなく、また招くことも出来ない。

 しかしそれの来るときにはあらゆるものにも拘わらず来るのである。

 「これから瞑想しよう」などということはおよそ愚にもつかぬことだ。

 私のなし得ることはせいぜいこの不意の客に対してつねに準備をしておくことである。」

 

 

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「思索は下から昇ってゆくものであるとすれば、

 瞑想は上から降りてくるものである。」

 

 

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「瞑想には条件がない。

 条件がないということがそれを天与のものと思わせる根本的な理由である。」

 

 

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「思索と瞑想との差異は、

 ひとは思索のただ中においてさえ瞑想に陥ることがあるという事実によって示されている。」

 

 

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「全ての瞑想は甘美である。この故に人は瞑想を欲するのであり、

 その限り全ての人間はミスティシズムに対する嗜好を持っている。

 けれども瞑想は本来我々の意欲に依存するものではない。」

 

 

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「瞑想を生かしうるものは思索の厳しさである。

 不意の訪問者である瞑想に対する準備というのは思索の方法的訓練を具えていることである。」

 

 

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「瞑想のない思想家は存在しない。

 瞑想は彼にヴィジョンを与えるものであり、

 ヴィジョンを持たぬいかなる真の思想も存在しないからである。

 真に創造的な思想家はつねにイメージをふまえて厳しい思索に集中しているものである。」

 

 

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三木清 人生論ノート1
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