ホーム > History/歴史, Reading/読書 > ヨーロッパ国際関係史―繁栄と凋落、そして再生

ヨーロッパ国際関係史―繁栄と凋落、そして再生

2010年4月21日

#引き続きEUの成立過程を。

#フランスとイギリスの距離感を中心に。

#200810#

書名:ヨーロッパ国際関係史―繁栄と凋落、そして再生

著者:渡辺 啓貴

出版社: 有斐閣

ISBN-10: 4641121478

ISBN-13: 978-4641121478

発売日: 2002/05

(敬称は省略させていただいています。)

###

「チャーチルには世界平和への夢があった。

それは、ヨーロッパ統合によって大陸の平和を確立することであった。

チャーチルは、戦前にブリアン仏外相の「ヨーロッパ連邦」構想に賛意を示した、数少ないイギリス人の1人であった。」

…p84

###

「1942年にチャーチルは、「ロシアの野蛮主義」から「ヨーロッパ文明」を守り、

「ヨーロッパの栄光と再生」を実現するためにも、

「ヨーロッパ審議会」としてヨーロッパ統合を進める必要を力説していた。」

「戦時中に抱いていたチャーチルの夢と悪夢は、戦後間もない彼の2つの演説に帰結している。

1つは、1946年3月のアメリカ・ミズーリ州フルトンでの演説であり、

そこでチャーチルは「鉄のカーテンがおり」てヨーロッパ大陸が東西に分断されている現状を警告した。

もう1つは、同年9月のスイス・チューリヒ大学での演説であり、

そこではフランスとドイツの和解に基づく「ヨーロッパ合衆国」の形成を提唱した。

この2つの演説はそれぞれ、「冷戦」と「ヨーロッパ統合」という、戦後のヨーロッパ大陸を規定する2つの原理を指し示していた。

冷戦とヨーロッパ統合という新しい原理によって、戦後ヨーロッパの運命は翻弄されるのであった。」

…p85

###

「戦後処理の最も中学的な争点の1つは、

イギリスとソ連間での東地中海における勢力圏画定の問題であった。

イギリスは、地中海における自らのシーレーンを防衛する必要を認識していた。

イタリアからバルカン半島を経てギリシャ及び中東にいたる海洋部分については、

イギリスは自らの影響力を保持したかった。

これはイギリス帝国の結束を維持するためにも不可欠であった。」

…p85

###

「ベヴィン英外相は、占領下のドイツを『単一の経済単位』として扱う必要が生じていると論じた。

イギリス政府にとっては、ドイツ占領政策でさらに財政支出を続けることは困難であり、

一刻も早く占領終結に向けての動きを進めたかったのである。」

…p100

###

「マーシャルプランによってヨーロッパの分断は決定的になりつつあった。」

p102

###

「決して侵略者の威嚇に屈してはいけない。

これが西側諸国が戦前のナチス・ドイツとの交渉から学んだ教訓であった。」

p104

###

「イギリス政府は戦後一貫して、西欧諸国が結集して1つの勢力を形成することを求めてきた。

平時における軍事同盟への関与を嫌う孤立主義的なアメリカと、

強硬姿勢を崩さずイデオロギー色を強めるソ連を前にして、

イギリス政府は「西欧ブロック」を形成し西欧諸国の結束を固めることを求めた。

1947年のダンケルク条約における英仏協調、

そして1948年のブリュッセル条約締結による西欧5ヶ国の結集を成功させ、

「西欧同盟(Western Union)」構想は実現に向かいつつあった。

イギリスのベヴィン外相は、英仏を軸に西欧諸国が植民地を結集させ、

米ソと対等な地位に立つ世界『第三勢力』を構築することを夢見ていた。

それはまた、アメリカの資本主義とも、ソ連の共産主義とも異なる、

ヨーロッパの社会民主主義という理念を実現させることも意味していた。」

p105

###

「しかしながら、冷戦状況が進展する中では、このベヴィンの見解は外務省内で必ずしも多数派とはならなかった。

当時のイギリスの経済状況が、そのような理念を否定したのである。

そして1948年2月のチェコスロバキア危機や、ノルウェーやフィンランドに対するソ連の圧力を見て、

イギリスはアメリカとの協調関係強化を最優先させるようになる。」

p105

###

「ポツダム協定に従い、西ドイツでは依然として非武装化が守られていた。

したがって、そこは東西対立の中での力の真空であった。

(中略)

何らかの方法で、西ドイツの安全保障を確保せねばならなかった。

(中略)

米軍を送るわけには行かなかった。論理的に、それには2つの回答方法があった。

第1は、英仏を中心とした北大西洋条約諸国がさらなる兵力をそこに拠出することであり、

第2はドイツ人がドイツの領土を守ることであった。」

p107

###

「前者の選択肢は、英仏両国の経済苦境や海外領土での軍事的負担を考慮する限り困難であった。

とすれば、後者のドイツ再軍備と言う道を歩まざるを得ない。

英仏両国は苦悩の中にあった。

イギリス政府が次第に西ドイツの再軍備を了承する一方で、

フランスの場合はあまりにも鮮明なる過去の記憶から、ドイツ再軍備を受け入れることはできなかった。

しかしながら、脆弱な西欧防衛を強化するためにも、

米軍のヨーロッパへの関与の増大が不可欠であることは、フランス人も十分に理解していた。」

p107

###

「フランス政府学問の中から出した結論は、

超国家的な「欧州軍」の枠組みの中で、ドイツ再軍備を実行することであった。

フランスが主導する超国家的な「欧州軍」にドイツ兵力を参加させると言うことならば、

「ドイツ国軍」が復活し、ドイツのナショナリズムが再び惨禍をもたらすことはないだろう。

このような構想が、フランスのジャン・モネによって見出された。

これが、1950年10月にフランスのプレヴァン首相によって発表されたプレヴァン・プランの骨子である。

この構想は、「ヨーロッパ防衛共同体(EDC)」条約として1952年5月に西欧6カ国により調印され、

超国家的な軍事統合が目指された。

イギリスは、帝国防衛のための海外での軍事負担や、EDCの超国家的性質を敬遠したため、

自らはこの条約に加わることはしなかった。」

p108

###

「1945年9月にイーデンは、ロンドンで9カ国外相会談を開催し、この問題を討議した。

その結論は、1948年のブリュッセル条約を、新たにWEU(西欧同盟)として改組し、そこに西ドイツを加えることであった。

重要なことは、それは政府間協力の枠組みであって、しかもイギリスが加わっていることであった。」

「イギリスとフランスは、1958年のスエズ危機における屈辱的な挫折ののち、

国際政治における発言力を著しく縮小させていたのである。

他方、1955年にヨーロッパ統合をめぐる新しいイニシアティブが発揮され、

それは1958年の欧州経済共同体(EEC)設立へと向かう。」

p121

###

「イギリス政府は、マラヤやシンガポールで植民地支配への復帰を達成する一方で、インドの独立問題に直面した。

インドはイギリス帝国の中で、最大規模かつ最も重要な歴史をになっていた。

ところが、1947年8月にアトリー労働党政権は、インドとパキスタンの独立を容認した。

イギリス政府の思惑は、敵対的なインドと独立戦争を戦うよりも、

インド独立へとイギリス自らがイニシアティブを発揮し、

コモンウェルス(英連邦)の中に友好的に位置づけたほうが自らの利益になる、ということであった。

事実、ブルマを除いて、独立後のインド、パキスタン、セイロンはコモンウェルスの一員となった。

イギリスは部分的に脱植民地化を容認しながら、依然として自らの世界的な影響力と責任を確信していた。

戦後すぐにイギリス政府が、世界帝国の解体を望んでいたわけでも、受け入れたわけでもなかった。

コモンウェルスとしての結束を図りながら、イギリスの世界大国としての地位を維持することが重要だったのである。」

p127

###

「戦後ヨーロッパにおける西欧協調は、世界政治における冷戦対立の構図と平行して進められたのであった。」

p129

###

「西欧諸国、なかでもイギリスは、

アメリカと対等の地位を手に入れるためにも植民地政策の協調によって巨大な世界勢力を形成することを望んでいたのであった。
ところが次第にそのような西欧植民地協力としての「第三勢力」構想が、幻想にすぎないことが明らかとなる。

西欧諸国政府は、アジアやアフリカにおけるナショナリズムの強さを、あまりにも小さく見積もっていたのであった。」

p129

###

「1952年にエジプトで革命が起こり、それまで親英的であった君主制が転覆して、

反英的姿勢を持つナセル率いるアラブ・ナショナリストが政権を荷う事になった。」

「ダレス国務長官の目には、スエズでの英仏の帝国主義的な武力行使は、

ハンガリーでのソ連の帝国主義とほとんど同じような野蛮な行動であった。

アイゼンハワー大統領は、厳しくこの英仏の行動を非難した。

また、同時にソ連政府は、軍事行動も辞さぬ姿勢で英仏合同軍のスエズからの撤退を要求した。

イギリスは屈辱的な撤退を決意し、それにともなってフランスも作戦を中止した。

もはやイギリスも、世界戦略上で最も重要な位置を占めている中東問題においてさえも、独力で解決することができなかったのである。

イギリスは、あらためて英米関係の重要性を認識した。

アメリカとの協調を無視しては、重要な外交問題を解決することはできない。

したがって、イーデンを継いだマクラミン首相は、外交政策の基軸に英米協調を掲げたのである。

他方、フランスは、アメリカの非難を浴びてすぐさま撤退したイギリスに対し強い不信感を抱いた。

重要な局面でイギリスは、フランスではなくアメリカを選ぶのである。

フランスはこののち、欧州経済共同体(EEC)設立に積極的な姿勢を見せ、

さらには仏独協調の枠組みを強化する方向へと進むことになる。」

p134

###

「1946年9月の「ヨーロッパ合衆国」を求めるチャーチルに導かれたヨーロッパ運動の圧力運動は、

1948年のハーグでの「ヨーロッパ会議」へと帰結した。

この会議は、西欧諸国政府に統合の進展を強く要求した。

他方、1947年末のロンドン外相理事会の決裂により、

西欧諸国政府もその結集によって西欧の安全保障と復興を目指すようになった。

1948年3月のブリュッセル条約は、ヨーロッパ統合の起源をめぐっても、重要な意味を持っていたのである。

そのイニシアティブを発揮したのが、イギリス政府のベヴィン外相であった。」

p135

###

「ところが西欧同盟内では、政府間協力としての統合を望むイギリス政府と、

より連邦主義的な統合を求める大陸西欧諸国政府との間で厳しい対立が続いていた。」

p138

###

「スエズ危機での英米両国への不信感が、フランスを『ヨーロッパ』へと向かわせる大きな動機となった。」

p146

###

「同時に、このころフランス政府は泥沼化するアルジェリア戦争に疲弊しており、

その意味でも植民地主義に代わる『ヨーロッパ』の枠組みの意義を、十分に意識していたのである。」

p146

###

「フランスがヨーロッパ共同体へ向かう一方で、

イギリスはそれとは一線を画して、英米『特別の関係』の強化へと向かっていた。

ここでイギリスとフランスは、再び異なる方向へと向かっていたのである。

スエズ危機はその意味でも、英仏が異なる教訓を得て、異なる道を歩むことの転機となった。」

p147

###

「54年のEDCの挫折は、イギリスに改めて超国家統合の限界を知らしめた。

また、イギリス抜きでのヨーロッパ統合が実にもろいものであると考え、その新しいイニシアティブを真剣に考慮しようとしなかった。

『ヨーロッパ再出発』のこの重要な時期にイギリス首相としてヨーロッパ政策を指揮したのは、イーデンを継いだマクミランであった。

また、55年のメッシーナ会議からイギリス代表を離脱させる決定を行ったのは、当時の外相マクミランであった。」

p147

###

「マクミランは、自らが長年抱いていた政府間協力としての、

イギリスをリーダーとする新しいヨーロッパ統合構想を推し進めるようになる。

これはコモンウェルスに似た形での緩やかな自由貿易圏(FTA)を意味し、当時、政府内では「G計画」と呼ばれていた。

マクミランは、スパーク報告を土台としたEEC設立への動きが失敗し、西欧諸国がこの「G計画」を受け入れて、

イギリスをリーダーとする新しいヨーロッパ統合が始まると期待していた。

しかしながら、スパーク報告を検討していた「6カ国」はこのマクミランの構想にあまり魅力を感じず、それを拒否することになる。

マクミランの非現実的な野望はくじかれ、

西欧はEECに参加する「6カ国」と、マクミラン構想に参加する「7カ国」に分裂した。」

p147

###

「マクミランは、イギリスの国益に最適な形での、イギリスのリーダーシップによるヨーロッパ統合を望んでいた。」

p147

###

「10年前のシューマンプラン発表の頃とは異なり、

イギリスにとって植民地やコモンウェルスの経済価値ははるかに縮小し、

それに代わってヨーロッパ大陸の経済規模は想像以上の速度で拡大していたのである。

その中核であるEECを無視して、イギリス経済の将来を考えることは困難であった。」

「イギリスはアメリカの「トロイの木馬」であり、

それは自立した「ヨーロッパ」を模索するドゴールにとって致命傷となる。

ドゴールはイギリスの加盟を通じてアングロ・サクソンの支配下に入ることを防がねばならなかったのである。」

p148

###

「そもそも大西洋同盟は、設立の敬意から英米主導で進められてきたものである。

ドゴールは大西洋同盟再編の問題を、フランスのNATO加盟において死活的な問題と考えていた。」

「英米と対等な地位を得るために、フランスは「ヨーロッパ」という枠組みを用いる必要があった。

フランスは、ヨーロッパという土台の上に立って初めて、世界政治における自らの影響力を確立することができるのである。」

p154

###

「ドゴール大統領は、

ケネディ政権の「大西洋パートナーシップ構想」を、アメリカによるヨーロッパ支配の再強化であるとみなすようになる。

ケネディ政権のこの構想とMLF構想を、ドゴールは一体のものとして考えた。

それはアメリカの影響力がヨーロッパへと浸透することとみなしていた。

1962年12月のアメリカによるポラリス・ミサイルのイギリスへの売却もまた、

イギリスのアメリカへの従属としてドゴールの目には映った。

したがってドゴールは、イギリスのEEC加盟の扉を閉じ、さらには仏独枢軸の形成へと急いだ。」

「このとき、ヨーロッパの将来像をめぐって2つの選択肢があった。

ケネディ政権の考える「大西洋のヨーロッパ」と、ドゴールの考える「ヨーロッパ人のヨーロッパ」である。

ドゴールは1963年の一連の行動で、前者を否定して後者を選ぶと言う選択を行ったのである」

p154-155

###

「ドゴールの退場でイギリスのEC加盟への道が切り開かれた。

世界経済が困難な時代に入った中で、自らの活路をどの方向に見出すかの選択を迫られたのがイギリスであった。

1961年のEEC加盟申請の際には、コモンウェルス(英連邦)や英米の特別な関係への配慮という点から、

イギリスにはまだまだ迷いがあった。」

###

「続くウィルソン労働党政権の加盟申請(67年)当時には、

すでにイギリス経済再生のためにも、イギリスの国際的役割を取り戻すためにも、

残された道はEEC加盟しかないという意見が数多く出されていた。

しかし、ウィルソンのヨーロッパ主義にはかなり便宜的なところがあったことも事実であり、

この申請も2度目のドゴール政権の拒絶にあった。」

###

「70年6月に登場したヒース英保守党政権は、それまでの英政権で最も親EC的な政権であった。

ヒースは10月には加盟への本格的交渉に入った。」

p175

###

「ウィルソン政権にとって、

イギリスになるべく有利なCAPに関する決定をもたらすことが加盟申請の1つの動機であったのだが、

この願いはかなわず、ヒース政権はフランスに有利な共通農業政策を、既成事実として受け入れざるを得なかった。

これはとりもなおさず、フランスに対抗する形でのEC加盟は無理であることを、イギリスが悟ったことを示していた。」

###

「結果的には貿易大国であるイギリスは、

多くの財源をECに提供する割には、フランスほどに共通農業政策から恩恵を受けなかった。

サッチャーまで引きずられる問題構造が、このときすでに存在していたわけでもあるが、

ヒース政権は、外から影響力を及ぼそうとするよりも、

中に入ってから漸次的に事態をイギリスに有利に改善していくほうに望みを託した。」

p176

###

「イギリスは、EMUが進展しようとも、加盟国は国家としてのアイデンティティを喪失しないことを確認したと表明した。

EC加盟がイギリスの国家主権の侵食につながるという、英国内の根強い反論を意識してのことであった。」

###

「加盟が主権喪失につながるという議論に反駁するにあたっては、66年のルクセンブルクの妥協が非常に役に立った。

ヒース政権は、共通農業政策が英国内の食料価格を押し上げ、コモンウェルス貿易を弱体化させるであろうことは認めたが、

にもかかわらず、イギリスは加盟により技術的、経済的に恩恵を受け、世界の中でのイギリスの声を強化することができると論じた。

その際には、60年代のEEC6カ国経済の急成長ぶりが傍証とされた。」

###

「やっと合意に至ったイギリスのEC加盟であったが、予想にたがわず国論は二分された。

産業界は加盟に好意的であり、賛成キャンペーンを展開していた。

しかし世論は流動的であり、保守党内部からの造反も予想されていた。」

###

「73年1月1日に実現したイギリスのEC加盟は、イギリスがヨーロッパのほうを向いた決定的な一歩であったことは間違いない。

これは、それ以前の「帝国」(コモンウェルス)とアメリカとの特別な関係を絶対的に優先させる立場から、

よりヨーロッパのほうにイギリス外交の重心がぐっと傾いた、歴史的な決断であった。」

p177-178

###

拍手を贈る

広告
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。