ホーム > Wise remark/名言/人物 > 三木清 人生論ノート3

三木清 人生論ノート3

2010年1月29日

三木清 人生論ノート1
 #三木清 人生論ノート2

###

「評判を批評のごとく受け取り、

 これと真面目に対質しようとすることは、無駄である。

 いったい誰を相手にしようというのか。

 相手はどこにもいない、もしくはいたるところにいる。」

###

「噂には誰も責任者というものがない。

 その責任を引き受けているものを我々は歴史と呼んでいる。」

###

「われわれの生活は期待の上に成り立っている。」

###

「期待は他人の行為を拘束する魔術的な力を持っている。

 われわれの行為は絶えずその呪縛の元にある。

 道徳の拘束力もそこに基礎を持っている。

 他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遙かに困難である。

 時には人々の期待に全く反して行動する勇気を持たねばならぬ。

 世間が期待するとおりになろうとする人はついに自分を発見しないでしまうことが多い。

 秀才と呼ばれたものが平凡な人間で終わるのはそのひとつの例である。」

###

「ギブ・アンド・テイクの原則を

 期待の原則としてでなく打算の原則として考えるものが利己主義者である。」

###

「人間が利己的であるか否かは、

 その受取勘定をどれほど遠い未来に伸ばしうるかという問題である。

 この時間的な問題はしかし単なる打算の問題でなくて、

 期待の、想像力の問題である。」

###

「この世で得られないものを死後において期待する人は宗教的といわれる。

 これがカントの神の存在の証明の要約である。」

###

「利己主義者は自分では充分合理的な人間であると思っている。

 そのことを彼は公言もするし、誇りにさえもしている。

 彼は、彼の理知の限界が想像力の欠乏にあることを理解しないのである。」

###

「全ての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、

 想像力のない合理主義の産物である。

 社会の基礎は契約でなく期待である。

 社会は期待の魔術的な拘束力の上に建てられた建物である。」

###

「どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。

 心の秩序を度外視してどのように外面の秩序を整えたにしても空疎である。」

###

「秩序は生命あらしめる原理である。

 そこにはつねに温かさがなければならぬ。

 ひとは温かさによって生命の存在を感知する。」

###

「また秩序は充実させるものでなければならぬ。

 単に切り捨てたり取り締まったりするだけで秩序が出来るものではない。

 虚無は明らかに秩序とは反対のものである。」

###

「しかし秩序は常に経済的なものである。

 最少の費用で最大の効果を上げると言う経済の原則は秩序の原則でもある。」

###

「最少の費用で最大の効果を挙げるという経済の法則が

 同時に心の秩序の法則でもあるということは、

 この経済の法則が実は美学の法則でもあるからである。」

###

「近代デモクラシーは内面的にはいわゆる価値の多神論から無神論に、

 すなわち虚無主義に落ちてゆく危険があった。

 これを最も深く理解したのがニーチェであった。

 そしてかような虚無主義、内面的なアナーキーこそ独裁政治の地盤である。

 もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立ち直らなければならない。

 しかるに今日わが国の多くのインテリゲンチャは独裁を極端に嫌いながら

 自分自身はどうしてもニヒリズムから脱出することが出来ないのである。」

###

「外的秩序は強制によっても作ることが出来る。

 しかし心の秩序はそうではない。」

###

「人格とは秩序である。自由というものも秩序である。

 …かようなことが理解されねばならぬ。そしてそれが理解されるとき、

 主観主義は不十分となり、

 いくらか客観的なものを認めなければならなくなるだろう。

 近代の主観主義は秩序の思想の喪失によって虚無主義に陥った。

 いわゆる無の哲学も、秩序の思想、特にまた価値体系の設定なしには、

 その絶対主義の虚無主義と同じになる危険が大きい。」

###

「感傷の場合、私は座って眺めている、

 立ってそこまで動いてゆくのではない。

 否、私はほんとには眺めてさえいないであろう。

 感傷は、なんについて感傷するにしても、

 結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。

 批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。

 真の批評は、真の懐疑は、物の中に入ってゆくのである。」

###

「感傷的であることが芸術的であるかのように考えるのは、一つの感傷でしかない。

 感傷的であることが宗教的であるかのように考えるものに至っては、

 更にそれ以上感傷的であるといわねばならぬ。

 宗教はもとより、芸術も、感傷からの脱出である。」

###

「瞑想は多くの場合感傷から出てくる。

 少なくとも感傷を伴い、或いは感傷に変わってゆく。

 思索するものは感傷の誘惑に負けてはならぬ。

 感傷は趣味になることができ、またしばしばそうなっている。

 感傷はそのように甘美なものであり、誘惑的である。

 瞑想が趣味になるのは、それが感傷的になるためである。」

###

「全ての趣味と同じように、

 感傷は本質的にはただ過去のものの上にのみ働くのである。

 それは出来つつあるものに対してでなく出来上がったものに対して働くのである。

 すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。

 感情的な人間は回顧することを好む。

 ひとは未来について感傷することができぬ。

 少なくとも干渉の対象であるような未来は真の未来ではない。」

###

「感傷は制作的でなく鑑賞的である。

 しかし私は感傷によって何を鑑賞するのであろうか。

 物の中に入らないで私は物を鑑賞しうるであろうか。

 感傷において私は物を味わっているのでなく、

 自分自身を味わっているのである。

 否、正確にいうと、私は自分自身を味わっているのでさえなく、

 ただ感傷そのものを味わっているのである。

 感傷は主観主義である。

 青年が感傷的であるのはこの時代が主観的な時期であるためである。

 主観主義者は、どれほど概念的或いは論理的に装うとも、

 内実は感傷家でしかないことが多い。」

###

「感傷には個性がない。それは真の主観性ではないから。

 その意味で感傷は大衆的である。

 だから大衆文学というものは本質的に感傷的である。

 大衆文学の作家は過去の人物を取り扱うのが常であるのも、これに関係するであろう。

 彼らと純文学の作家との差異は、

 彼らが現代の人物を同じように巧みに描くことができない点にある。

 この簡単な事柄のうちに芸術論における種々の重要な問題が含まれている。」

###

「行動的な人間は感傷的でない。

 思想家は行動人としてのごとく思索しなければならぬ。

 勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである。」

###

「感傷には常に何らかの虚栄がある。」

###

「思想が何であるかは、これを生活に対して考えてみると明瞭になるであろう。

 生活は事実である、どこまでも経験的なものである。

 それに対して思想には常に仮説的なところがある。

 仮説的なところのないような思想は思想とはいわれないであろう。

 思想が純粋に思想として持っている力は仮説の力である。

 思想はその仮説の大いさに従って偉大である。

 もし思想に仮説的なところがないとすれば、

 いかにしてそれは生活から区別されえるであろうか。

 考えるということもそれ自身としては明らかにわれわれの生活の一部分であって、

 これと別のものではない。

 しかるにそのものがなお生活から区別されるのは、

 考えるということが本質的には仮説的に考えることであるためである。」

###

「仮説的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。

 仮説はある意味で論理よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。

 論理そのものが一つの仮説であるということさえもできるであろう。

 仮説は自己自身から論理を作り出す力をさえ持っている。

 論理よりも不確実なものから論理が出てくるのである。

 論理も仮説を作り出すものと考えられる限り、

 それ自身仮説的なものと考えられねばならぬ。」

###

「すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、

 その逆でないということは、深く考えるべきことである。

 つまり確実なものは与えられたものでなくて形成されるものであり、

 仮説はこの形成的な力である。

 認識は模倣でなくて形成である。

 精神は芸術家であり、鏡ではない。」

###

「しかし思想のみが仮説的であって、人生は仮説的でないのであろうか。

 人生もある仮説的なものである。

 それが仮説的であるのは、それが虚無に繋がるためである。

 各人はいわば一つの仮説を証明するために生まれている。

 生きていることは、ただ生きているということを証明するためではないであろう、

 ───そのような証明はおよそ不要である───

 実に、一つの仮説を証明するためである。

 だから人生は実験であると考えられる。───仮説なしに実験というものはありえない───

 もとよりそれは、何でも勝手にやってみることではなく、

 自分がそれを証明するために生まれた固有の仮説を追及することである。」

###

「すべての思想らしい思想は常に極端なところを持っている。

 なぜならそれは仮説の追求であるから。

 これに対して常識の持っている大きな徳は中庸ということである。 」

###

「誤解を受けることが思想家の常の運命にようになっているのは、

 世の中には彼の思想が一つの仮説であることを理解する者が少ないためである。

 しかしその罪の一片はたいていの場合思想家自身にあるのであって、

 彼自身その思想が仮説的なものであることを忘れるのである。

 それは彼の怠惰に依ることが多い。

 探求の続いている限り思想の仮説的性質は絶えず顕わである。」

###

拍手を贈る

哲学者。岩波文庫の巻末にある『読者子に寄す』は三木氏によるものだそうです。

詳細はwikipediaで。

敗戦後にも関わらず、政治犯として獄死した日本の哲学者です。

ここで紹介している言葉は『人生論ノートからの引用です。

###

三木清 人生論ノート1
 #三木清 人生論ノート2

広告
カテゴリー:Wise remark/名言/人物
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。