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Albert Camus/アルベール・カミュ4

2009年7月25日

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「知性の鍛錬にいくぶん慣れた精神は、

パスカルのように、一切の誤謬は排除にあることを知る。

知性の極みに達して確実な知識から人が知るのは、

学説には全て真実なものがあり、

たとえ見た目には正反対であろうと、

また、それがソクラテスやエンペドクレス、

パスカルやサドと名付けられようと、

人間の偉大な体験のどれ一つをとってみても、

先験的に無意味なものは何もないということだ。

ただ時と場合とが選択を強いるのだ。

かくしてニーチェには、力のこもった論議で、

ソクラテスとキリスト教を攻撃することが必要に思われた。

だが、だからこそまた反対に、今日我々がソクラテスを擁護し、

あるいは少なくとも彼が言っていることを擁護する必要があるのだ。

というのは、時代が、

一切の文化の否定であるような価値を以てそれらに取って代わらせようとしているからだし、

またニーチェが、彼が望んだはずのないある勝利をここで得る危険があるからだ。

こうしたことは、

思想の生き方にある種の日和見主義を導き入れるかに見える。

だがそれは、そう思えるだけなのだ。

なぜならニーチェや我々にしたところで、

問題の『もう一面』に対する自覚を失ってはいないし、

ただ、擁護の反動が問題であるだけだ。

そして終いには、我々の体験に加えられたニーチェの体験が、

ちょうどダーウィンの体験に加わったパスカルのそれのように、

またプラトンに加えられたカリクレスのように、

人間のあらゆる記録を復元し、我々を、我々の祖国に帰してくれるのだ。

(もっともこうしたすべては、

一ダースもの補完的ニュアンスを以てして初めて真実たり得るのだ)」

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「無意味さについての一文。

だがはじめに、いったい、無意味さとはどういうことだろう。

この点では語源には惑わされやすい。

それは、意味がない、ということではない。

とすれば、まさしく世界は無意味だと言うべきだろう。

無分別と無意味は同意語ではない。

無意味な人物は、たぶん全く合理的なのだろう。

それは、くだらない、ということでもない。

偉大な行動で、真面目で壮大な計画で、しかも無意味なものがある。

しかもそれらは、進歩の途上に我々を置いてくれる。

なぜならこうした行為は、

大まじめでそれを企てるものにとっては無意味とは思えぬからだ。

だからこう付け加えて言わねばならぬ。

それは……にとって無意味だ。あの人間は……に関しては無意味だ。

ある思想は……した枠の中では無意味だ、といったように。

いいかえれば、そしてまた他の一切の事柄と同じように、

無意味さにも相対性がある。

がそれは、無意味とは相対的な事柄だというのではない。

それは無意味ではない何か――たとえば、――意味の、

――ある種の重要性のあるもの(考慮に値するもの)、

利益のあるもの、注意する価値のあるもの、没頭できるもの、

献身できるもの、何らかの位置を占めるもの、

正当な権利である立場を占めるもの、精神を打つもの、

絶対的に注意を惹かれるもの、一目瞭然たるもの……などなどと

相関的な関係を持っている。

これでもまだ、より上手な定義ではない。

無意味とは、人が、

意味のメートル原基のいくつもの定義をなし得るその時に限って、

相対的なものとなるのだろう。

いいかえれば、

より一般的な意味についてそれが持っているごくわずかな意味を抽き出すことにより、

それがより大きな何かと比べられるということだ。

この言葉に留意しよう。

大いに用心して、ある程度まで、

またいくつものニュアンスにすがりながら、

こう言っても良いだろう。

無意味なものとは、強いて意味のないものをいうのではなく、

それ自体で一般的な意味をもたぬもののことだ、と。」

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「死の恐怖を乗り越えない限り、人間には自由はない。

だが、それも自殺によってではない。

乗り越えるためには放棄してはいけない。

苦い思いもなく、面と向かって死んでゆけること。」

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フランスの作家。主な著作は、

シーシュポスの神話』、

異邦人』、

カリギュラ・誤解』、

ペスト』、

反抗的人間』、

転落』、

幸福な死』、

最初の人間』、

太陽の讃歌』、

反抗の論理』、

カミュの手帖第3巻

(ほとんど新潮社)など。

ここで紹介している名言は主に、

太陽の讃歌』と『反抗の論理』からの引用です。

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